つまり中国の刺青は「反体制、反権力」の象徴であり、あまり関わりたくはないが万一の時は庶民の味方として権力の横暴と戦ってくれる人物、というイメージがあった。
 こういう目的での刺青は、いきがってやる場合も含めて、かなり昔からあったらしく、孔子の論語の中にも刺青を批判したと解釈できる一節がある。

 孝教という巻の中に「身体髪膚之(これ)を父母に受く、敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」とあるのがそれだ。
 この「敢えて毀傷」というのは刺青の事ではないか、というわけだ。
 孔子は紀元前5世紀ごろの人物だから、身体装飾としての刺青は、中国では相当古い事になる。

 また歴史学では「禁止する法律があったのなら、その行為が広く行われていた証拠」と考えるのがセオリーである。
 論語は法律ではないが、この一節が日本にまで伝わって広く知られているという事は、刺青を入れる若者が後を絶たなかったからに相違ないだろう。

 おそらく中国と日本の交易が盛んになった平安時代末期以降、中国の船乗りなどの刺青に刺激された日本人がそれを真似るようになったのが、日本の彫り物、刺青ではないかと考える。

 ただし、中世までの刺青は江戸時代以降のそれとは違い、一種の身分証明ないしは自己の安全保障のための物だった可能性が高い。
 これは日本の刺青の起源が邪馬台国にあった事から考えて、帰属証明としての機能と身体装飾としての刺青が併存していたと考えられる。