夏の部屋


「あら、もうお話ししたの?」

近付く声に振り返れば、女の人が立っていた。


「そろそろ、行くぞ。俺たちこれから引っ越すんだ」
「はあ?引っ越す?」

また初耳。なに?引っ越す?

「菖蒲ちゃん、何も聞いてないんだね」
「悪かったですね。ちょっとお父さんどういうこと?」

悪びれた風もなく、お父さんはにかっと笑って言う。

「だから、再婚に合わせて引っ越すんだよ。ほら、もう見えるんじゃないか?あそこだよ」

見上げた先には、白い二階建てくらいのアパートらしき建物。
高台に建っていて、海が綺麗に眺められそう。

「あそこ?」
「へえー。綺麗なところじゃないですか」
「だろ?」

得意そうなお父さん。隣で女の人が微笑ましそうに見ている。
こんな単細胞男のどこに惚れたんだろう。

「ただな、すっげえ狭い」
「…すっげえ?」
「すっっげえ狭い。だから各自家具はクローゼットのみ!一個!」
「はああ?!」

クローゼットが計四個しか入らない家ってどういうこと?

「ごめんね、菖蒲ちゃん。女の子だから、住む家とか気になるわよね」

気を遣ったのか、女の人が眉尻を下げる。
いちいち絵になる人だ。

「いえ!気にしてないです。寝れればいいんで」
「そうだよ。こいつ、俺に似てガサツだから」
「お父さんはうるさい」


それから、各自荷物をまとめてくるということになった。
またね、と翼君と手を振りあって、車に乗り込む。

「かっこいい兄ちゃんじゃないか」
「そうかもね。…そんなことより、どうして言わなかったの」
「別に、サプライズのつもりだ」
「…タチ悪いよ」

行きと同じ体勢になった私を見て、単細胞でもさすがに何か感じ取ったらしい。

「…そう怒るなよ。これから、充実したいい生活できるって」
「そ。」

それ以上二人とも何もしゃべらないまま、家についてしまった。

早足に自室へと向かい、あまり周りを見ないようにしながらお気に入りのスーツケースにつっこめるだけつっこんだ。
自分の部屋なのに、見れば泣いてしまいそうだった。
生まれてから十五年間過ごした部屋。壁の落書きも、好奇心で机に彫ったハートも、全部にじんでしまいそう。

「はい」

無造作に詰め込んだスーツケースをお父さんに渡し、車に積んでもらう。
振り返れば、父と母、私の三人で暮らしてきた家。

車のエンジンがかかる。さよなら。いきなりゼロに戻ってしまった。
今日までの十五年間が消えてしまったよう。

「…………」

角を曲がり、家は見えなくなった。

さようなら。