李黄と千里とは直接的な面識はないものの、千里に関する噂はよく聞いていた。良い噂より、その逆が大半を占めるのだが。
兵士たちのなかでは「静国四大恐怖」として恐れられているとか。
国民たちのなかではその出身から「庶民の星」として崇められているとか。
噂によると、彼女は根っからの愛国者であり、そのために暴走したり、周りを巻き込んだりすることも多々あるとか。
自分にも他人にも厳しいその性格が影響してか、彼女が隊長を務める第三近衛部隊は、国内で一番美しい部隊とも言われる。
信頼は篤いが、好んで彼女の下に就く者は稀有。あの部隊に入隊する者は揃ってドMだと言われるほど、彼女は厳しいことで有名だった。
兎にも角にも、噂の耐えない人物で、ぜひとも直接彼女に会って話をして、噂の真偽を確かめたいところだ。
李黄は数々の噂を頭に思い浮かべ、思わずくすりと笑ってしまった。
「李黄、李黄……!」
思い出し笑いをしたところで、李黄の後ろからこそっと声をかけた者がいた。振り返ってみるものの、それらしい人物は見当たらない。
気のせいだったのか。李黄は軽く首をひねって、再び前を向くこうと身体を捻る。
「こっちよ、こっち!」
やはり気のせいでも幻聴でもないようだ。李黄が後方をよくよく見ると、建物と建物の影に、頭から爪先まですっぽり隠れるようなマントを着て立っている者がいる。
華奢なシルエットと、それ程低くない身長から『子どもではない女性』だと判断できる。
それにしても怪しいことこの上ない。が、なんとなく聞き覚えのある声に、李黄は相手を伺うような素振りを見せた。
風に煽られ目深に被ったフードが揺れ、端に夕陽色の一房が零れ落ちる。それを目にした李黄は相手を特定した。
「……橙妃ちゃん」
さすがに李黄も一瞬、閉口せざるを得なかった。呆れたように腰に手を当て、なぜこんなところにいるのか問いただそうと息を吸い込む。が、橙妃にしーっとジェスチャーで静止され、肺にためたばかりの空気を外に逃がすはめになる。
その間に橙妃は周囲に人の目がないことを確認し、李黄の手を掴むと路地裏に引っ張り込んだ。
「で? 橙妃「様」はこんなところに、そんな格好で何の御用ですか?」
私もあまり人の事言えた義理ではないけれど、と前置きして李黄は橙妃に鋭い視線を向ける。
自身は賓客といえど、所詮は獣人。招かれざる客と言っても過言はないだろう。しかし、
橙妃はどうだ。彼女は「人間」であり、紅の「花嫁」であり、静国に属する「玉の使い手」であるのだ。
李黄のトゲのある言葉に、少しだけ拗ねたような表情を見せる橙妃。
「ばっくれてきたの」
そのおおよそお姫様らしくない一言に、李黄は目を丸くする。腰に手を当て、斜め上を見上げながらそう言う少女は唇を尖らせている。
「もう、静国でのお勉強なんてうんざり! 静国の花嫁としての自覚やら、心構えやら、大国に嫁いだ責任やら、うるっさいのよ! だいたい、なんのために私が紅に尽さなきゃならないわけ!」
「ははっ。橙妃ちゃん、紅と兄弟みたいに仲良いもんねえ」
「はぁあ!?」
李黄の斜め上の言葉に、橙妃は心底嫌そうな顔を向けた。何を言っているのかよく分かりません、と橙妃の顔に分かりやすく書いてある。
「なんで、あんな傲慢で我が儘で横暴でシスコンで、短気で尻尾みたいな頭で全力不機嫌でシスコンなやつと!」
「シスコン二回言ったよー」
「大事なところだからよ」
李黄は、どこか楽しそうにへえ、と相槌を打つ。
「うん。じゃあさ、折角だし一緒に行かない?」
「どこに?」
つい先ほどまで無断外出を咎めていたというのに……。
急に態度を改めた李黄に、訝しむような視線を向けながら問う。
「ここから、ちょっと北東にある森! 森自体そんな小さくも大きくもないし、危険も少ないし、冒険するにはピッタリって感じなんだ」
「少ないって……。怪我したらどうすんのよ?」
「大丈夫! なんと言っても私たち、『玉の使い手』だよ? それにいざとなれば私が囮になって助けてあげるって」
「それは助かるわ」
「ええっ? そこは否定してよー」
橙妃は、彼女の言った少ないは事故によるもの、李黄の言った少ないは人的要因によるものという違いに気付かなかった。
それを後悔するはめになるとは思わず、李黄に導かれ、今の橙妃は北東にあるという森に期待を寄せるのだった。

