李黄に手を離されても相変わらず地面とお友達状態の男に声をかけると、理景は有無を言わせず立ち上がらせる。
 どうやら、心此処に在らず、のようだが、なんとか自分の足で立てるのは立てそうだ。

「あーあーもう、まったく。獣人族と僕たち人間では身体の強度だって違うということを全く念頭においてないんだから……」

 とりあえず医務室行きだな、と擦り傷だらけの男を見て、心の中で理景は大きなため息をつくのだった。
 


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「隊長、お疲れ様でーす」

 建物の奥にある大きめの木製の扉。その取っ手を引き、李黄は中にいる人間に挨拶をする。
 この警備隊屯所の兵のほとんどがくすんだ黄土色の制服を着用しているのに対し、中にいるその人間だけは深い緑色の服を着ていた。一瞬、そこだけ植物が生えているかのように錯覚させるような配色具合だ。


「琴明(キンメイ)隊長。言われた通り、書類その他一式、城内に届けて参りました」

 琴明と呼ばれた人間は署名を一旦中断し、顔を上げた。
 焦げ茶色の瞳は小さく細いが、何事も見逃しそうにないと思わせる力を放ち、どんより曇り空のような色一色の髪はオールバックにされ、仕事のできる男を体現しているようにも見える。

 年齢は五十代前半といったところだろうか。きっと彼なら似合うだろう髭がないのが少し残念でならない。
 女性兵の間では「琴明隊長に口髭を生やさせよう同盟、略して口髭同盟」が結束されたとかされていないとか……。


「ご苦労でしたね」

「いえいえ、いつものことですから」


 手を休めた琴明は労いの言葉を李黄にかける。ノックもなしに扉からこんにちはされたことは完全にスルーだ。
 琴明は職務上立場は上であるものの、李黄は国賓であるため、彼らは一応お互いに敬語を使っている。最初はなんとなく違和感を感じながら接していた李黄も今ではごく自然な会話と感じるまでになった。

 李黄がこの警備隊に入ることになったのは、王の計らいではあるものの、実際に彼女を置くと決めたのはだれでもない彼、琴明だ。
 李黄が配属されることを決める際には、当然のことだが、部下はもちろん、周辺住民からの反対にも遭ったという。具体的な内容こそ誤魔化されたものの、李黄は琴明自身からそう聞いている。聞くだけでなく、実際様々な嫌がらせも受けてきたのだが……。


「幾百という困難が待ち受けているだろうが、貴方にその気があるのなら、私のもとにくるといい」

 そう言われ、琴明隊長のもとで働き始めて早数年。
 未だにさせてもらえる仕事は少なく、それも危険性の低い「おつかい」とも言えるレベルのものばかりだ。

 だが、それを不満に思うことなどできるわけもなく、李黄は甘んじてその恩恵に与っていた。獣人である李黄を率先して受け入れた琴明の本位がどこにあるのかは分からないままではあるものの、想像よりもずっと大切に扱われている。



「琴明隊長、今日の午後はおやすみいただく予定なんですけど」

 大丈夫ですよね? と言外に聞かれ、琴明は視線だけを動かした。そんなことは聞かなくても分かるだろう、と態度で語ったのだ。

 その仕草に満足したのか、李黄は満足気に微笑む。

「いつも言っていますが、私への報告を逐一するのはお止めなさい。必要事項や緊急連絡のみで結構です」

「了解でーす。じゃあ、あとは伝言だけ。第三近衛部隊の東羅副隊長からです。後から、正式な報告があるとは思いますが、しばらく隊長が欠勤するとのことです」

 そこで、初めて琴明は手を止めて、すっと顔を上げた。

「千里殿が……?」

「噂によると旅に出たとかなんとか」

「分かりました。とりあえず、正式な通達を待ちましょう」


 話を切り上げ、琴明の顔が再び髪の毛に隠れると、李黄は軽く一礼して踵を返した。