え?今?
このタイミングで?

と思ったけれど、右手を膝上あたりについて、ゼイゼイ息を切らしているあたしは、脳みそに酸素が廻っていないせいで、状況が全く理解出来ない。


「あんた、何?」

やっとの思いで吐き出した言葉はそれだけ。


「俺は八十島孝介。33才、独身。誕生日は12月30日、山羊座のA型。職業は医師。好きな食べ物はカレーライスと甘いもの、嫌いな食べ物はピーマン。趣味は野球。これが俺の基本データだ。覚えろよ。で、お前の名前は?」


スーツの胸ポケットから免許証を出して見せるから、一応確認すると名前と顔は間違いなく本人で。

これが偽造したものかどうかなんて、わかるはずもないあたしは信じるしかない。


「……葛西千秋だけど、覚えるってなんで?」

名前くらいは答えてやろうと思ったあたしに、八十島はとんでもない事を言い出す。


「一年も付き合って婚約したのに、何も知らないっておかしいだろ?」

「ハァ?」

あたしは記憶喪失だろうか?
彼氏がいて、婚約?
全然覚えがないんですけど。
ないな、イヤ絶対にない。


「と、いうフリをしてくれ。頼む千秋」

急に振り返り、両手を合わせて深々と頭を下げる八十島という男。


「話しは俺がする。千秋は適当に合わせてくれれば良い」


ちょっと待て、とんでもなく悪い予感。

向かってるのは高級レストラン。
そこに婚約者が連れて乗り込むということは、待っているのは……。


「ムリ、無理無理無理!」

「頼むって! お前どうせ暇だろ。見合い相手にすっぽかされて」

カーッと頭に血が上る。

全部の階数ボタンを押すと、直ぐにエレベーターの扉が開いた。

「そんなのあんたに関係無い。例え暇でもあんたの助けだけは絶対にしない」

言い捨てて逃げようとしたのに、お腹に八十島の腕が回り、『閉』ボタンが押される。

あたしの目の前、無情にもエレベーターの扉は閉まり上昇を開始。

それからも各階でエレベーターは止まるが全部スルーされて。