肺いっぱいに、まだ暗い明け方の空気を吸った。
ひんやりした酸素が身体の中にしみわたるようだ。
ゆっくり息をはき、いつものスタート地点へ歩きだす。
「止まれ」の線の前で立ち止まる。
背伸びをして、走り出す。



竜馬(たつま)にとって毎朝近所をジョギングするのは日課になっていた。
小2のときから、父と始めたジョギング。
竜馬の大好きだった父はちょうど一年ほど前、仕事の都合で海外へ行く途中に飛行機事故にあい他界した。
家でも仕事でも信頼されていた父が亡くなったときに、悲しまなかった人はいなかっただろう。
冷たい風の中、竜馬はふと思い出した。
今日はバレンタインだ。
いまのところ、生まれてから貰ったことのある人は数えるほどしかいない。
母と妹、向かいに住んでいた同級生のおばさんと、中2のとき告白混じりに渡されたチョコぐらいだ。
チョコは美味しかったが、告白には返事も返さず、今になって後悔している。
竜馬はスピードをあげ、小学校の前をUターンした。
家から小学校までは800メートルほどで、今は妹の夏巳(なつみ)が通っている。
ちらっと腕時計をみた。
AM5:34
だいたいこの辺りを通るときにはこのぐらいの時間だ。
あまり疲れていないのは、なれているからだろう。
竜馬はこの時間が大好きだった。そのため、母ゆずりの低血圧だが毎朝4時半頃には目が覚める仕組みになっている。自分でも驚いてしまうシステムだ。
竜馬は家から10メートル位の駄菓子屋の前から歩きだす。
家から近いため、随分小さい頃からお世話になっている店だ。
おばちゃんもいい人で、今は娘さんも手伝っているからか駄菓子屋にしてはおしゃれな店内になっていた。
竜馬が家へ帰ったのは6時を少し過ぎた頃だった。
「ただいま…」
カッチャン、と気持ちの良い音をたててドアが閉まった。
向こうの方からおかえりなさい、と聞こえた。
竜馬は靴を脱いで靴箱へいれ、黒いラインの入ったナイキの靴と入れ替えた。
竜馬には、ジョギング用、学校用、休日用の靴がある。
もちろん、全部自分で買ったものだ。
竜馬はコンビニでバイトしていて、収入の半分は家に入れている。
「兄ちゃんおかえり」
夏巳が洗面所で歯を磨きながら言った。
今起きたのだろう、髪の短い夏巳は寝癖がひどかった。
「夏巳…」
竜馬が腰に手をあてて立っている。
「わかってるって、ペッ」
夏巳が鏡に映った竜馬を見ながら言った。
「またすぐ使うから」
夏巳はため息混じりに言いながら洗面所から出ていった。