「ぼくの家じゃないみたいだ」

 驚きながらそう言うと田中は「勿論」と何故か胸をはってこちらを向きドアを開けた。

「お金はいりやせん。さあ、降りてください」

 ぼくは周りを見渡す。一番近くに座っている老人はこちらを気にすることもなく杖を握った自分の手を見つめている。まるでこれが自分の手だとはどうしても信じられないとでもいうように。
 ぼくは何となく不吉なものを感じて田中と向き合う。

「ねえ。ぼくは帰りたいんだ。ここはぼくの家じゃない」

「勿論。ここはお客さんの家じゃございません。しかしお客さんにはここで降りてもらいやす」

「タクシーっていうのは客の言った場所に行くものだろう?」

「お客さん、そいつぁちがいますぜ。タクシーってのは客が行きたい場所に行くものです」

 ここがぼくの行きたい場所?ぼくが求めたからこの場所に行き着いたのだろうか。そんな筈はない。そもそもぼくはこんな場所なんて知らないのだから。ぼくは少し田中を睨む。

「そんな怖い顔したってダメですぜ。お母様にそんな顔された日にゃあ考えますけどね。さあさ、降りてください。大丈夫。あとでちゃんと迎えにきやす。約束しまさぁ」

 田中のヒゲがひくひくと動く。どうやらヒゲを動かすのが癖のようだ。
 ぼくは一つ溜息をつきタクシーを降りる。降りるやいなやドアが閉まりタクシーはバックで遠ざかる。あっという間に見えなくなるタクシーを見送りながら何となく心細くなったぼくはとりあえず老人の横に腰をおとして状況を整理する。

 ぼくは家に帰ろうと猫タクシーに乗り、だけど今は知らない場所に置き去りにされている。
 これから何が起きても不思議じゃないような気がしてきた。
 そもそもぼくはどうして猫タクシーなんかに乗ってしまったのだろう。普通のタクシーに乗っていれば今頃家のベッドで眠れていた筈だ。そしてまたいつもの日常が繰り返される。
 でも猫タクシーは普通のタクシーと見分けがつかない。運転手が猫なだけで、それ以外は一般的なタクシーと何も変わらないのだから猫タクシーに乗った自分を責めるのは間違いだ。

 とにかく田中は迎えに来ると言ったのだ。
 待つしかない。この途方もなく長い廊下のような部屋から、歩いて抜け出せるとはどうしても思えなかった。
 ここでは猫タクシーが入口であり出口なのだ。