――――二月十四日。
 昨日の晩、私達は帰省した。今回は、私と夕海だけでなく、兄や美姫さんも一緒に。
 時刻は十八時半。
 今から私は優人に会いに行く。
 会うと言っても、チョコを渡すだけ。だけど、今日はめいっぱいお洒落をした。綺麗な姿を、彼に見て貰いたくて。ナチュラルだけど、綺麗に化粧を施して。少しだけ茶を帯びた胸元まである長い髪の毛は、綺麗にストレートにして。服装は、白い膝丈のスカートに、上は黒い服を合わせて。水色のコートを羽織って、黒のブーツを履いた。
「頑張れよ」
「頑張ってね」
 みんなが、応援の言葉をくれる。
 午前中には、なぎさからも<頑張ってね>とメールが届いた。
 なぎさにも少しだけ優人の事は話してあった。今日、優人に会う事も彼女は知っていたから、それを覚えてくれていたのだろう。こんな風にメールをくれて、私はとても嬉しくなった。
 みんなに、ただ「ありがとう」と返し、
「じゃあ、行って来ます」
 そう言って、私は家を出た。
 車に乗り込んで、すぐに優人宛てにメールを送った。
 優人は、今日会う事をきちんと覚えてくれていた。
<どこに行けばいい?>と尋ねると、
<じゃあ、来て貰うの悪いんだけど、俺ん家でいい? 場所覚えてる?>
 優人の返事にはそう書かれていた。
<覚えてるよ。じゃあ今から行くね>
 私はすぐに返信すると、車を発進させて優人の家へと向かった。



 優人の家へ到着し、車を停めて辺りを伺うと、何やら四、五人の(恐らく同世代)男子が、優人のアパートの近くをウロウロしていた。
 外は暗いからよく見えないけれど、目を凝らすと、どうやらその中に優人もいるようだった。何だか優人が、追い返しているようにも見える。今から人と会うから帰れ、若しくは、少しだけどこかに行っててくれ。恐らくそんな感じだろう。彼の友人らしき人物は、ジロジロとこちらを見ている。
 私はまだ車内にいたけれど、あまりにもジロジロ見られるから居辛くなってしまい、なかなか降りられなかった。けれど優人が車の傍に来てくれた。
 それに気付きすぐに下車した私は、「久し振り」と優人に声を掛けた。
 彼はいつものように「うん」と返事をして笑ってくれた。
 私はここで優人に渡そうと思っていたのだけれど、彼はくるっと向きを変え、そのまま自分の部屋へと歩き出した。
 家の中で受け取るつもりなのか……。予想外だった彼の行動に多少驚きはしたが、素直に彼の後ろをついて行く。
 彼の友人達は、車に乗ってどこかに行ってしまった。
「どうぞ」
 玄関扉を開けた優人に、入るように促される。
「ありがとう……」
 そう言って玄関へと入る。以前と、同じような台詞と光景。ただ、以前とは違い、部屋には明かりが点いていた。
 きっと今までさっきの友人達と家で遊んでいたのだろう。
「適当に座って」
「うん、ありがとう」
 優人の部屋へ入るのは、これで二度目。この場所に座るのも、これで二度目。
 優人も、前と同じ場所に座った。
「いつ、こっちに帰って来たの?」
 優人は顔を上げると、そう尋ねてきた。
「昨日の晩だよ」
「そうなんだ。向こうに戻るのは?」
「明日のお昼くらいかな」
 私がそう答えると、優人は、「そうなんだ」と一言呟き、それからは何も言わなかった。
「……」
「……」
 渡すなら、今――……。
「あの、優人に……、」
 暫しの沈黙を破り、私は徐にバッグからガサガサと小さな紙袋を取り出した。
「これ……」
 そう言って、優人に差し出す。
 二年前もこうして直接渡したけれど、やっぱり恥ずかしい……。優人の目を直視は出来なかったけれど、それでも笑顔で差し出す事は出来た。
「ありがとう」
 そう言って受け取ってくれた優人は、優しく微笑んでくれる。
「中、見てもいい?」
「え、今!?」
 私が驚いて声を上げると、優人は「じゃあ後で見るね」と言って、笑ってくれた。
 だけどまた暫く、沈黙が続く。
 もう渡したし、そろそろ帰ると言った方がいいのだろうか。
 ちらりと優人を見ると、目が合ってしまって。だけど優人は曖昧に笑うだけで、何も言わない。以前と違い、何を話したらいいのか分からなかった。優人も、今日は殆ど話してこない。
 少しだけ会話をしても、話が続かない。
 優人は、傍らに置いてあったファイルを開いて、それを見始めた。透明だから、中に色んな紙が収められているのが分かる。学校から配布された課題みたいだった。
「……」
 私は、どうすればいいのだろう。声を掛ければいいのか、それとも、「帰る」と言えばいいのか。
「……」
 優人をまた見る。目が合って笑ってくれるのだけれど、やはり何も言わない。笑顔が何だか、困っているように見える……。気のせいだろうか。
 優人は、見ていたものを横に置いた。
 それをチラリと見やると、何やら楽譜のようだった。
「それ……もしかして今、ピアノの練習とかしてるの?」
 楽譜を見ながら私が問うと、優人はこちらを向き、
「ああ、うん」
 と言った。
「全部弾けるようになった?」
「ううん。俺ピアノとかやった事なかったから、両手で弾くのが難しくて」
「そうなんだ。でも保育士になるには、ピアノも出来なきゃいけないから大変だね」
「うん」
 そんな会話をして、お互いにまた黙る。
 優人は再びファイルを開く。何も言わない。
 私は、優人に、ある事を尋ねた。
「――優人は、保育士になるの?」
 優人の夢は、今でも変わっていないだろうか。今でもその夢を追い掛けているだろうか。
 私がこんな風に思い、尋ねた理由は、彼の表情だった。
 見ているものが難しい楽譜だからかも知れない。もしかしたらファイルなんて関係なく、実習を繰り返し、自分には合わないと思ったのかも知れない。
 その表情は、以前に比べ生き生きとはしていなかった。
 私の質問に暫し考えを巡らせた後、彼は困ったような表情で、
「……分からない」
 とだけ、言った。
 ならないなんて言ってない。なのにどうしてだろう。
 優人の言葉が、何だかとても、悲しかった。


 それから暫くの沈黙後、突然優人の携帯電話が鳴った。
 メールのようだ。
「――!」
 優人の携帯電話を見て、瞠目する。そして悲しくなった。だって彼が持っているのは、茶色の携帯電話ではなくなっていたからだ。いつ、変えたのだろう。
 寂しくて悲しくて、逆に何だか笑いが込み上げてきそうだ。
 私はなんて愚かでバカなんだろう。自分は優人より先に携帯電話を変えてしまっているくせに。自分勝手にも私は、優人にその携帯電話をずっと使っていて貰いたいなんて思っていた。
 優人はメールを見た後、困惑の表情でこちらを見た。
 それだけで、私は状況を察する。
 ――そろそろ帰って。
 きっと、さっき外にいた友人達が戻ってくるのだろう。だから早く帰れと。
「友達、そろそろ戻ってくる?」
 自分から切り出した。
「うん……」
 笑ってくれてはいるけれど、やはりどこか困っている。
 だけどこの表情は、今だけじゃない。さっきからずっと、気になっていたし、やっぱり気のせいなんかじゃなかった。心を締め付けるには十分の表情で、辛かった。
「……」
「……」
 今日の優人は、どこかおかしい。以前とは違う。優しい事に変わりはないけれど、どうして今日は、何も話してくれないのだろう……。
 優人の携帯電話が、再び鳴る。
 それを彼はすぐに見る。
「友達、もうここに着いた?」
「……らしい」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
 私は、彼が申し訳なさを感じないように、笑顔でそう言った。立ち上がって優人の部屋を出ると、見送ってくれるのか優人も立ち上がった。
「お邪魔しました」
「うん」
 挨拶をして外に出ると、友人は本当に戻ってきていた。暗くてよく分からないけれど、真顔でこちらをじっと見ている気がするから、恥ずかしくて早くこの場から離れたくなった。四・五人いるから少しだけ怖かったけれど、特にニヤニヤもしていないし、寧ろ優人の用事が終わるまで喋りもせず大人しく待っているから、何だか逆に滑稽だった。
 乗車して、後は発進させるだけの所で、何気無く窓の外を見た。すると優人が立っていたから驚いた。てっきり友達の所に行って話していると思っていたから。
 ずっと、いてくれたのだろうか。じっと、こちらを見ている。
 窓を開けた。
 すると優人は、一瞬こちらに歩み寄ろうとした。けれど、それは本当に一瞬だった。
「今日は本当にありがとう」
 そう言うと、
「いやいや、こちらこそありがとう」
 そう言って笑ってくれた。
 車を発進させて、優人の家を後にする。
 会えて嬉しかったのに。受け取ってくれて嬉しかったのに。少しでも一緒にいられて幸せだったのに。
 ……どうしてだろう。
 微笑む優人の、だけどどこか困った表情が、辛くて、忘れられない。
 友達が来ていたのに、早くに帰らなかった私に「帰れ」と言いたくても言えなかったのだろうか。そう思われていたと思うと、悲しく仕方なくて。
 以前と違い、殆ど話してくれない彼が、また遠くに感じてしまって。


 ――――私は優人の彼女に、なれるだろうか……。


 なれないかも知れない。
 そう、思ってしまって。
 頑張る事は、もうこれ以上にないんだって胸を張って言えるくらい、頑張ってきたと言える。だけど、頑張ったからと言って、全てが叶うとは限らないんだ。
 優人はきっと、相手を傷付ける言葉は言えないから、「そろそろ……」と婉曲な発言すら出来なかった。帰って欲しいと、本当は思っていたのに。
 そう思うと、悲しくて涙が零れた。
 対向車のライトが、嫌に眩しい。こんな惨めな姿を照らされている気がして。
 辛くても泣くな。自分で決めた道なんだから。それでも好きだと、大切だと思える人がいる。好きで居続けたいと思えた人だから。
 ……言い聞かせても、止まらない涙。
 泣きながら運転したこの道を、この日を、私は生涯決して、忘れる事はないだろう。