そっと、目を開けた。眠れそうになかった。
 優人はもう寝たのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えたけれど、背中を向けているし、そうでなくてもこの暗闇では確認のしようがなかった。
 優人は身動き一つしない。
 とても静かだった。……静か? そういえば、寝息は聞こえない。
 まだ起きているのかどうなのかが、ハッキリ分からなかった。
 背後の気配だけで観察していると、突然優人が寝返りを打ち、布団の中に入ってきた。
「!」
 離れてはいるけれど、こちらを向いている。
 落ち着き始めていた心臓が、再びドクドクと波打った。
 私は目を閉じて、ただじっと全神経を背後に集中させていた。
 寝ようと試みても、気になって眠れない。
「――――!!」
 優人の左手が、後ろに流れた私の長い髪の毛の上にそっと置かれた。
 ど、どうして……。
 心臓の音がバクバクと煩い。次第に音の間隔が短くなっていく。
「――――!?」
 私はハッと目を見開き、息を呑んだ。
 優人が、近付いてくる――――……。
 距離はどんどん詰められていく。
 私は怖くなって、ギュッと目を瞑った。大量の汗を握った拳が震え出す。
 どうしよう……どうしよう……。
 優人は起きている? 寝惚けているだけ……?
 動く事も出来なくて。声を掛ける勇気もなくて。
 優人は、私のすぐ後ろにまで来ていた。背中に優人の体が当たってしまっているくらいに。
 私の心臓の音が、部屋中に響いているみたいに鳴っていた。
「――――……」
 優人の左手が、私のお腹辺りに回った。そして左腕を軽く掴んだ。怖くなってその手を振り払いかけたけれど、寝惚けているだけだったらと思うと、それは出来なかった。これが無意識の行動ならば、それに気付いた彼はどうするだろう。
 今までの関係が崩れてしまいそうで怖かった。
 どうしよう……どうしよう……。
「……!!」
 掴まれていた左腕が軽く引っ張られた。
 その反動で私の体は仰向けになり、振り返ろうとして僅かに浮いた私の頭の下には(正確には首の下)、彼の伸ばされた右腕がするっと入った。
 そう、所謂、腕枕。
 何が何だか分からなかった。ただじっと寝たフリをするしか出来なくて。
 優人の行動が分からない。優人の気持ちが分からない。
 煩い心臓の音は、優人の耳に届いてしまっているだろうか。聞こえているなら、起きている事がバレてしまう。
 優人の左手は、今度は私の右腕を軽く掴んだ。
 どうしよう……どうしよう……!!
 ギュッときつく瞑った瞼が震える。その下の瞳が揺れる。
 右腕がまたも引っ張られて、優人へと向く、私の体。優人の左手は、私の背中にそっと回された。
 私は大きく目を見開いた。
 だけど、それらの行動は一瞬で。




 私は優人の手を払いのけて、そこから逃げるように背を向けた。




 怖かった。
 ただ、それだけ。




 何が起こったのかよく分からなくて……優人の気持ちや行動、意識的なのか無意識なのか、もう何もかもが分からなくなって混乱して。
 何も分からないから怖かった。
「……」
「……」
 暫く沈黙が続いた。
 どれくらい流れたんだろう。
 私は一旦冷静になる為に、トイレに行く事にした。
「……優人、……トイレ、借りるね……」
 声を掛けた。
 恐る恐る、だけど、何事もなかったかのように。
「…………うん」
 優人はのそのそと起き上がってきた。
 その声や動作から、やはり今まで起きていたのかどうなのか、判別がつかなかった。
 部屋の電気を点けて貰い、私はトイレに入った。
 深く深呼吸をして、少しずつ冷静さを取り戻す頭。冷静になっても彼の気持ちは分からなかったけれど、自分がされた事などは、少しずつ理解していった。
 あれは――……。
 私は恥ずかしくなって顔を両手で覆った。
 一瞬。
 ほんの一瞬だったけれど、あれは……、
 だ、だ……抱き……抱き、し……駄目だ……これ以上は恥ずかしくて言葉に出来ない。
 私はそっと両手を下ろした。
 優人はどうして、あんな事を……でもそれを聞いてしまったら、私達は今までのように話せなくなりそうで……漸くまた楽しく話が出来るようになったのに……。
 何も言わないでおこう。
 どっちにしろ、何かを言う勇気は、私にはなくて。
 ……だから、さっきの事は。




 なかった事にしよう。




 トイレから出て、すぐに布団の中に戻った。
 優人も電気を消し、私の隣へとやって来る。
 仰向けに寝転んだ私に、
「寒くない……? 壁の方に……」
 そう言って彼は優しく布団を掛けてくれて、いつの間にか壁に寄り掛かっていた私を、心配してくれた。
「……大丈夫」
 本当は窮屈で壁から離れたかったけれど、少しでも動くと隣の優人にくっついてしまいそうで……恥ずかしくてそれは出来なかった。
 私の返事を聞いた優人は、こちらに向けていた体を、仰向けにした。
 お互いに何も言わない。
 さっきのは、本当に何だったのだろう。
 それから優人は、何もしてこなかった。
 私は目を閉じた。
 ……今の。今の布団の掛け方。
 優しい声。
 優し過ぎて……何か特別なものがないと出来ないと思った。
 それは自惚れかも知れないけれど、私は彼に対しそう思ってしまった。
 私を大切に、大事に扱ってくれている。
 それに……。
 壁の方に……そう言った時、彼の左手が一瞬、私の体を引き寄せようとした。その手は結局、私に触れる事なく離れて行ってしまったけれど。
 優人の気持ちは分からない。少しだって分からないけれど、彼の優しさから感じ取れたのは、


 今までありがとう。
 好きでいてくれてありがとう。


 そんな気持ちだった。
 優人に、そう言われたような気がした。
 彼が動いたので、私はハッとして隣を見た。
 彼は私に背を向けて横向きになると、やがてスヤスヤと、規則正しい寝息を立てていた。
 どこかホッとしたように小さく溜息を漏らし、私も静かに眠りについた。
 ……このまま。
 このまま目が、覚めなければいいのに。















 ゆっくりと、目を開けた。
 上半身を起こし、すぐに隣を見た。
 優人が、いる。
 彼はまだ寝ていた。
 視線を彼から外し、カーテンの隙間から差し込む日差しを、目を細めてぼんやりと見つめた。
 目なんか、覚めなくても良かったのに。
 朝なんか、来なくても良かったのに。
 優人の寝顔をもう一度見て、私は彼を起こさないようゆっくりと立ち上がった。
 布団から出て、炬燵の中に入る。
 携帯電話を開いて時間を確認すると、時刻は十時を過ぎた所だった。
 携帯電話を静かに畳むと、私は優人の寝顔を見た。
 彼は起きる気配はなかった。仰向けに寝ていて、その上に掛けられている布団は、少しも乱れていない。ただ目を閉じているだけに見えるくらいに、綺麗な寝姿勢だった。
 綺麗な顔……。整った眉に、鼻筋の通った高めの鼻に。パッチリとした二重の瞳は、今は閉じられていて。それを縁取る長い睫毛。形のいい唇は、キュッと固く閉じられている。おでこに掛かる長めの前髪も、後ろ髪も、サラサラで綺麗だった。
 こうしてまじまじと見つめて、改めて綺麗な顔で、綺麗な人だと思った。
 勿論、それは容姿だけじゃなくて。
 暫く優人を見つめていたけれど、やはり起きる気配はなかった。



 それから一時間が経過したけれど、優人はまだ起きてこない。起きて欲しいようなこのまま寝顔を見ていたいような、複雑な気持ちだった。彼が僅かな動きを見せる度にハッとしてそちらを見るけれど、その瞳は閉じられたまま。
 十時半頃に母から<そろそろ帰って来なさい>とメールが入った。
 だけど、もう少し優人と一緒にいたいのと、優人を起こすのは悪いからと言った理由から、もう少しだけと、伸ばし伸ばしにしていた。
 それで今は十一時を回ってしまった。
 お昼前だし、これからの用事もあるから母が言うようにそろそろ帰らなければならない。私は溜息をついて、跪くような体勢でちょこちょこ歩き優人の傍まで寄ると、仕方なく彼を起こす事にした。
「――優人、」
 小さな声で彼の名を呼ぶと、彼はハッとしたように目を開けた。
「……私、そろそろ帰るね」
「……あ、ああ、うん」
 寝起きの為、頭がすぐに回らないのだろう。彼は一瞬、何が何だか訳が分からない、と言った表情をしたが、昨夜の事を瞬時に思い出したのか彼はクルッと体勢をうつ伏せにし、肘で体を支えるような体勢で携帯電話で時間を確認していた。
「……着替える?」
「うん」
 彼から借りたズボンからスカートに履き替える為、私はスカートを手に持っていた。それを見た彼は状況を察しそう言うと、布団を頭まで被り、潜り込んだ。見ないように顔を隠してくれているんだろう。
 その姿が何だか可愛らしくて、優人には聞こえないように微かに笑った。



「お邪魔しました」
「うん」
 彼の家から出ると、私は自分の車に向かう。優人は見送りの為に、一緒に外に出て来てくれた。
「色々ありがとう」
 笑顔でお礼を言うと、
「ううん」
 そう言って彼も笑い返してくれた。
 車に乗って、シートベルトをして、エンジンをかけて。後はギアを変えて発進させるだけ。
 その前に。最後に。
 優人を見た。
 別れを惜しむように。優人の顔を、この目に焼き付けるように。
 優し過ぎる微笑みが、そこにはあって。
 泣いてしまいそうだった。
 昔、彼が電話の向こうで微笑んだくれた時と、一緒の微笑みだと私には感じた。あの時は声だけだったけれど、今はその微笑みが声じゃなく、姿となってここにある。唯一無二だと思っていた、私がずっと忘れられなかった微笑みが、今、ここに――……。
 幸せ過ぎて泣いてしまいそうだったけれど、私はそれでも笑顔を向けた。
 彼に向かって小さく手を振ると、彼も同じく振り返してくれた。
 車を発進させて、私は彼の家を後にする。角を曲がるまで彼は先程の位置から動かずに、見送ってくれていた。





 最大級の幸福の中で、もしも死ねたなら。



 ……本当にそうなれば、良かったんだ。



 この日で私が終わっていたなら。



 この心はきっと、きっと救われていた。



 この想いはきっと、きっと報われていたんだ。