美しい瞳。
 綺麗で真っ直ぐな、あなたの瞳を。
 私は生涯、忘れない。
 ……忘れられない。



 ――バレンタイン当日。



 綺麗にラッピングされた、手の平サイズのチョコケーキ。
 まるで壊れ物を扱うかのように大事に大事に両手に抱えながら、私は車内から外をじっと眺めていた。
 今日は汽車でT駅まで行こうとしていたのだが、兄が丁度T市に用事があるらしく、ついでにと、送迎をお願いした。
 運転は兄。私は助手席に座った。
 後部座席には……、
「お姉ちゃん。会ったら感想教えてね!」
 運転席と助手席の間から身を乗り出し、そう言うのは、妹の夕海だ。
 高校はこの日、昼頃には帰れるのだが、中学校はそうではない。夕海は学校を早退してまで付いて来たのだ。
 ただ、緊張し過ぎて一人では心細かったので、夕海がいてくれるのは正直心強かったしありがたかった。
 兄は用事の為、私を駅で降ろしたらすぐにそちらへ向かう。
 優人を待つ間や渡し終えた後はどうしても一人になってしまう。だから夕海がいてくれる事はありがたい。
「うん、勿論。あんまり長くは会えないらしいから、もしかしたら本当に渡すだけで終わるかも知れないけど」
 後ろを向きながらそう答えた。
「それでも会ってくれるんだから良かったね」
「うん」
 ……本当に、会うんだなぁ……。
 優人は今日の事を憶えてくれているだろうか。
 今日の約束をしてから、一度もメールをしていない。私も敢えて送らなかった。
 今日がバレンタインだという事も分かっているだろうし、渡したいから会いたいと言っているのだと理解もしてくれているだろうから。
 その事を意識しながら敢えて普通の話をする気にはどうしてもなれなかったのだ。
 それと……。
 ――着いたらメールする。
 優人からメールをくれるのだと思うと、自分から送りたくなかった。約束の場所に着いたよというただの報告でも、彼からメールを貰えるのなら、そんなに嬉しい事はないじゃないか。
 それは彼から初めてメールをくれた事になる。……まぁ少し違うかも知れないが、この際細かい事はどうでもいい。
「はー……」
「――緊張する?」
 大きく深呼吸をした私に、今度は兄が声を掛けて来た。
「緊張するよ……。初めて会うし……」
「そうなのか。まぁ普通に「はいっ」って渡せばいいんじゃないか? 電話もした事あるんだろ?」
「あるけど……多分渡すのは普通に渡せると思う。ただ、会うまでって言うか……待ち時間って言うか……とにかく会う前までが緊張する」
「ああ、でもまぁ分かるなぁ、その気持ち」
 隣を見る事はなくただ前を見つめながら私が言うと、隣の兄もまた、視線を前に向けたまま笑っていた。











「着いたぞ。ここでいいか?」
「いいよ、ありがと」
 お礼を言って、車のドアをバンッと閉めた。
 兄は助手席側の窓を明け、じゃあ頑張れよーと言葉を残し、用事を済ませる為に車を発進させた。
 駅前のコンビニに降ろされた私達。優人からの連絡を待つ間、コンビニの中で適当に雑誌を読む事で時間を潰した。
「夕海はずっとここで待ってる? 多分渡してすぐに戻って来ると思うけど」
「うん、そうしようかなー」
「……隠れてこっそり見てるなんてやめてね」
「……する訳ないじゃん」
 そんな会話をしていると、私の携帯電話が振動し、メロディを奏でた。
「……!」
 一斉に、携帯電話が仕舞われたポケットに視線を移した。
「……そのメロディ、優人って人?」
「……うん」
 どうしよう……。来てしまったのだろうか。もう目の前の駅に来ているのだろうか。
 このくらいの時間に着くだろう事を予想して来たのだが、まさか本当に予想通りの時間に到着するなんて。
「……早く見なよ」
 携帯電話を持って立ち尽くす私に、夕海はメールを見るように急かした。怒っている訳ではなく、呆れた様子だ。
 いちいち反応の面倒臭い私を見ていて、思わず言葉にしてしまったのだろう。
「分かってる……」
 私は優人から送られたメールを開いた。



<着いたよ!>



「着いたって……!」
 興奮気味に夕海に言った。
「マジ!? ちゃんと来てくれたんだー。行って来なよ、ここで待ってるから」
 そう言ってまた目の前の雑誌を取り出す夕海。
 隠れて見るなどという悪趣味はないという意思表示のつもりか。そんな事をしなくても充分に信頼している。尤も、今の私はそんな事すら気付かない程に、狼狽しているのだが。
「どうしよう……心の準備が……」
「いいから早く行って来なよ」
 言うが早いか、夕海は私の背中を押しながら無理矢理コンビニから追い出した。後ろを振り向いて扉の向こうを見ると、夕海がにっこりと笑って手を振っていた。私は大きく深呼吸をすると、先程の優人のメールに返事を返した。



 勇気を出して駅の中に入ってはみたものの、見渡した先に優人の姿はなかった。駅内にあるお店でも見ているのだろうか。
 私は優人に電話をした。
『もしもし? どこにいるの?』
 優人はすぐに電話に出てくれた。
「あ……優人? 今は駅の切符売り場の近くにいるんだけど……」
 普段なら電話する事さえも逡巡するのに、今は会う事の方が緊張している為、電話の方が容易く感じた。
『あれ? そっちの方?』
「え? うん。優人は?」
 私は携帯を耳に当てたまま、キョロキョロと周りを見渡しながら近くを歩き回った。
『俺は改札口前の階段――、
「!?」
 優人の言葉を最後まで聞かずに、電話を切ってしまった。優人を――見付けてしまったからだ。
 極度の緊張と驚きの所為で反射的にそうしてしまったのだろう。
 優人は松田さんと一緒に来ていた。
 優人は私がいる場所とは反対の方向を向いており、私には気付いていないので、いきなり電話を切られて「……?」という様子で電話を眺めていたが、こちらを向いていた松田さんが私に気付き、それを優人に教えていた。
 その様子を見ていた私は、思わず目の前にある太い柱に隠れてしまった。
 どうしよう……気付いたからこっちに来る……。
 会う為にここに来たのだからそれが当たり前なのに、緊張のあまり、まだこっちに来ないで……! と、訳の分からない事を願った。
 ――待っていたのはほんの五秒程だろうか。
 柱の向こう、ここから優人は現れるだろうと凝視していると、案の定そこから優人が現れた。
 優人……。
 彼は軽くペコッと頭を下げると、あっちに行く? と尋ねて来た。やはり今日こうして会う事の意味を理解している。
 これから起こる出来事を思っての行動だろう。ここは人通りが多いし、一番目立つ場所だ。だから気を利かせてそう言ってくれたのだろう。
 私はただ頷いて少し前にいる優人の後を付いて行く事しか出来なかった。
「今日どうやって来たの?」
 振り返って私の目を真っ直ぐに見る優人。
 いきなりのそれに驚きはしたが、普通に話してくれる事が嬉しかった。
 真っ直ぐ射抜くように見つめる優人の瞳。私もただ真っ直ぐに見つめ、視線を逸らす事はしなかった。出来なかった、の方が正しいかも知れないが。
「……今日は車で来たの。お兄ちゃんが今日たまたま市内に用事があって。そのついでにここまで送って貰ったの」
「あ、そうだったんだ! 俺てっきり汽車で来ると思って、ずっと上の方ばっか見てた」
 そう言って優人が笑うから、私も笑った。
「ああ、だから電話で『そっちの方?』って言ってたんだ?」
「そうそう」
 そんな話をしながら、人気の無い場所まで行った。
 少しだけ談笑をすると緊張も解れて行き、いつもの調子を取り戻す事が出来た。
 優人が笑うと嬉しくなる、それだけで自然に笑顔が溢れる。幸せだった。
「……そうだ、あの……、」
 あまり長く付き合わせてはいけないと思い、ここら辺でと、私は肩に掛けていたバッグから、私達がこうして会う事の目的だったものを取り出した。
「はい、これ……優人に」
 緊張は解れていたものの、やはり優人の目を真っ直ぐに見つめる事は出来なかったが、笑顔で差し出す事が出来たから、上出来だと思う。
「ありがとう」
 そう言って優人はそれを受け取ってくれた。
 学校帰りなのに鞄などは何も持っていなく、彼は手ぶらだった。そのまま持って帰るのは恥ずかしくないのだろうかと思ったが、堂々とその手に持っていてくれる事が嬉しかった。
「すぐに食べるから。――あ、でも。多分返せない、よ?」
「いいよいいよ」
 手を軽くふるふると振りながら、笑顔でそう言った。
 お返しが欲しくて渡したんじゃないから。こうしてわざわざ会って受け取ってくれた事が最高のお返しだと思う。
 その言葉は飲み込んだが、言葉と笑顔に、偽りなんて露程もない。
「ほんとにありがとう。マジですぐ食べるから」
「うん、ふふ」
 互いに笑い合う。
 こんな幸せな時間がずっと続けばいいと思うけれど、優人の都合もあるし汽車の発車時刻だってもしかしたら近付いているかも知れないので、優人の傍で長居は出来なかった。
 バッグを肩に掛け直し、そろそろ帰る、という仕草をすると、
「――もう帰る?」
 そんな様子が伝わったのだろう。優人はそう尋ねてくる。
「うん。そろそろ帰ろうかな。……今日は、ありがと」
 そう言うと優人は笑った。優しく。
「じゃあ、また。──気を付けて」
「うん。……優人も」
 私が軽く手を振ったのを確認した優人は、背を向け歩き出した。
 それを少しだけ見送って、夕海の待つコンビニに向かう為、私も踵を返し駅を後にした。



 兄の用事が終わるまで、駅周辺のお店を、二人で見て回る事にした。しっかりと先程の出来事を話しながら。
 外に出れば商店街もあり、そこに入れば私達が暇な時間を過ごす事はないくらいに、とても楽しいものになった。
 丁度歩き回って疲れてしまった頃に兄から連絡が入り、今から駅に向かうとの事だったので、私達は駅に戻り近くのベンチに腰掛けて兄の到着を待つのだった。
 暫くして兄が到着し、私達は疲れた表情で車に乗り込んだ。
 車が動き出してどれくらいの時間が流れただろうか。突然私の携帯電話が鳴った。
 それは優人からのメールだった。
<ケーキめっちゃ美味かったよ! 作るの上手いなぁ>
 受け取ってくれた事、食べてくれた事、こうしてわざわざメールをくれた事が本当に嬉しくて。
 このメールがずっと消えないように、今日という日がいつまでも消えないように、“保護”ボタンを、静かに押した。



 美しい瞳。
 綺麗で真っ直ぐな、あなたの瞳を。
 私は生涯、忘れない。
 ……忘れられない。