家に帰ると誰もいなくて、取りあえず、自分の部屋に駆け上がる。

パスポートと、あとは何が必要?

荷物は必要最低限の物でいい。

小さな鞄にポイポイと物を投げ込むと、その鞄を持って、一階にまた急いで下りる。


いつもこの時間はお母さんがいるはずなのに、どこに行ったのだろう?

未だに誰も帰って来ない、静まり返ったリビングで、少し考え込んだ私は、ポケットから携帯を取り出した。


「……」

「もしもし? 美月かー? どうした?」

「お父さん」

「うん?」

電話をかけた相手は、お父さん。

電話口から聞こえるザワザワとした声からすると、仕事場で電話を取ってくれたのだろう。


「今から、イギリスに行こうと思う」

「……」

「ごめん」

無言になったお父さんに、少し心が痛んで、私は謝罪の言葉を口にした。

だけどお父さんは、そんな私を少しだけ笑って、優しい口調で言ったんだ。


「気を付けて行っておいで」

「……」

「稜君に“今度は将棋、負けないからな”って、伝えておいてくれ」


お父さん。

お父さんは昔から変わらないね……。

厳しい時は厳しいけれど、いつだって私達のことを本気で考えてくれる。


「お父さん」

「ん?」

「大好き」

「ははっ! 稜君に怒られちゃうな」

この優しさに、今までどれだけ救われたか……。


「ありがとう」

「あぁ、気を付けて。落ち着いたらゆっくり帰ってきなさい」

お父さんとの電話を切った私は、連絡が取れなかったお母さんに置き手紙をすると、お庭のバウに声をかけた。


「バウ、ごめん!! 行ってくるね!」

私の声に、元気に返事をするバウの声を背中で聞きながら、家を飛び出して大通りに出ると、すぐにタクシーを拾った。


「空港までお願いします」

行き先を告げると、すぐに携帯を取り出して稜君の名前を探し、通話を押す。


「……」

――どうして繋がらないんだろう。

それだけが、唯一の気がかり。


もしかして、着信拒否?

違う。
そんなはずない。

色々考えたけれど、携帯は唯一の稜君との連絡手段で、稜君の家の住所なんかも入ってる。

必要な時にバッテリーが切れてしまわないよう、早々に電源を切って鞄に放り込んだ。


今は連絡が取れなくてもいい。

とにかく、行かないと。


10,000キロ先の、稜君がいる、あの場所へ――……。