世界が時間を忘れて仕舞ったかの様に、放課後の美術室の一角で少女――郁(いく)は動けなく為って居た。其は初恋の感覚にも似ていて。今迄眠って居た筈の心臓が突然眼を覚ましたのである。肺一杯に満たされる絵の具に染められた空気。暖かい日溜まりが彼女の身体を抱き締める。

一つの絵を、見つけたのだ。


青、青、青。空を其の儘切り取ったかの如く、将又海を取り出したかの如く。深く、鮮明な青。きっと触れたならばひんやりとした冷たさが肌を撫でるのだろう。心の内を揺さ振る衝動に駆られて少女は恐る恐る手を伸ばす、が。



「何をしてるんですか」


鼓膜を揺らした未だ大人に成り切れない、僅かに高い声のトーン。郁が緩と振り返れば美術室の入り口付近に一人の少年が立って居た。木製の古びた扉が緩慢な動作で閉められる。檻に閉じ込められた小鳥の様な息苦しさに郁は視線を地面に落とした。沈黙が狭い教室の中に満たされる。沈黙が良い話し相手だと言い出した公明正大なあの方に懐疑を持って仕舞う程の、気まずい無音。

どのくらいそうして居ただろうか。森閑とした世界に一つ、透明な色が落とされた。透明すぎて、其が声だったのだと反応が遅れた程に。



「魚は空を泳ぐと思いますか」

「え、」


撃ち殺されることを知って唯、凛として立つ牡鹿の眼が此方を見据えて居た。もし、此処で意思に従って引き金を引こうものなら、其の何処か神秘的で宗教的な瞳を見る事は叶わなく為るのだろう。そんな気がして、郁は閉口した。答えに沈黙を選んだ。すると少年は表面だけの笑みを浮かべると瞳を僅かに濁らせた。

失敗だ、と感じた。


「良いんですよ。正直に答えてもらって」


殺してしまったのだ、と思った。