要りません。

帰りましょうと自分から言えない身がもどかしい。

ここは、外の世界。

私の自由は限られている。

彼が立ち止まっているなら、私も立ち止まるしかない。

いたたまれなくなって俯くと、店主がため息をついた。


「ほら、旦那がさっさと買ってやるって言わないから奥さん遠慮しちまったじゃないか」


その台詞に、彼は少し不機嫌そうな顔をした。

そして買うか否かを返答しなければどうにもこの店主が解放してくれないと悟ったのだろう。

小さく息を吐き、私にこう聞いてきた。


「…欲しいか?」


初めて敬語以外で語りかけられ、過剰なほどに驚いた。


『…欲しいか?』


その響きに、心臓のすべてがもっていかれる。

今までずっと入れなかった彼の領域にぐっと引き寄せられたような気がして頬に熱が集まった。


『…欲しいか?』


わかっている。

『夫婦』なのだから敬語がおかしいことくらいわかっている。

彼はそれを演じただけだ。

別に彼との距離が本当に縮んだわけではない。

わかっている。

けれど。


『…欲しいか?』


嗚呼、どうしようもない。

その口調が嬉しくて、呼吸すら忘れてしまいそうだ。

私の赤面を、簪が欲しいということの図星と捉えたらしく、彼はもう一度小さく息を吐いた。

それが、面倒だという意思のように思えて、また胸が軋む。

店に入り、品物を見る彼に続く。

買ってくれるつもりなのだ、とわかった。

面倒なのに。

そんな気はないのに。

私がそれを望んでいるならと叶えてくれようとしている彼を本当に好きだと実感させられる。

でもそれは、二度と街には降りられないであろう私への餞別なのだろう。

その心遣いが私を痛めた。

もう二度と、こんな体験はできないだろう。

忍んでとはいえ、幽閉のこの身で街に降りるなど許されていいはずがない。

彼が何度もそんな危険をおかす義理などどこにもないのだ。


私は喜んではいけない。

私は楽しんではいけない。

私は『贄』。

そんな私に許された奇跡のような機会。

奇跡のような、人。


最高であり最後の、贅沢。


この装飾品が最後の私の贅沢だと私はしっかり受けとめる。

ならば、と思った。


――――簪が欲しい。


彼が選び、彼が私に買ってくれるものであるなら

簪がいい。


そう思った。