「慶志朗さまの初恋は、いつでございましたの」
祐雫の問いかけに慶志朗は、不思議な気分に陥っていた。
「初恋なんて、考えたこともなかったですよ。
祐雫さんの初恋は……」
「まぁ、お考えになられたことがございませんの。
私は、初恋とは少し違いますが、
小学六年生の時に青空のように広いおこころの鶴久病院の柾彦先生に
憧れてございました。
柾彦先生は、その後すぐにご結婚されましたの。
柾彦先生のように御医者さまになりたいと考えたこともございます」
(本当の意味での初恋は、慶志朗さまでございます)
祐雫は、こころの中で、熱く呟いていた。
「嵩原さまは、世界を味方につけていらっしゃって、
何も悩み事がない御方だと思ってございました」
慶志朗は、祐雫に包まれた右手を左手で包み返した。
祐雫といる時間は和やかに流れていた。
慶志朗を取り巻いていた「最速」の時間が遠い過去のように思えていた。
このまま桜池に佇んでいると、
時間が止まるのではないかとまで感じられた。
「悩み事のない人間などいるのでしょうか。
ぼくのことを過大評価し過ぎですよ。
祐雫さんは、どのようなことで悩んでいるのですか」
慶志朗は、柔らかな微笑みを祐雫に向ける。
「解けない数学の問題や
家のお手伝いをいたしますと
お勉強の時間が少なくなってしまうことでございます」
慶志朗は、思わず笑っていた。
今までどこか違和感のあった祐雫ではなく、
本質の祐雫に出逢えた気がした。
そして、祐雫が自身にそれだけ打ち解けてくれたことを感じた。

