「君か…」

 その男はほんの一瞬驚いたような顔を見せたが、まるで何事もなかったかのようにデスクに向かった。

 手に持っていたカルテを眺めながら医学書を開いたり、メモしたり、こちらには目もくれずに時間は流れる。

 あたしはその様子を無言のまま見つめていた。

 男は涼しげな顔で時々医学書に書いてある文章を小さな言葉にして呟いてみたり、眉間に小さな皺を作ってみたりしている。

 細い黒ぶちの眼鏡を時々右手の人差し指で持ち上げたりしていて、そのとても綺麗な手があたしは好きだ。きめの細かい繊細な白い肌。

 そして前髪をかきあげる癖。これはあまり好きじゃない。

「髪切れば?」

 唐突な言葉に、医学書に没頭していた男は、髪をかき上げてからこちらを見た。

「なかなか時間がなくてね。切りに行きたいとは思ってるんだけど」

「髪をかきあげるのやめてよ。イライラするわ」

「…ごめん」

「すぐ謝るのもやめてよ」

 男は黙ったままあたしを見つめた。あたしもその目を凝視する。風がまたカーテンを揺らし始め、ふと目を逸らす。

「ねえ、先生。あたしは迷惑?」
 
 ゆらゆらと揺れるカーテンが作り出す、床に映ったぼやけた影を見ながらそう呟いた。太陽の光があたしの背中をジリジリと焼いている。

「そんなことないよ」

「…そうかしら? …先生の言うことは、嘘が多いから信用できないわね?」

 この男はいつもすぐに、困ったような…優しくて悲しそうな顔をする。そして次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように笑顔に戻るのだ。

「今日の仕事は?」

「もう終わったの」

「君はいつもそんな風にしてるけど、本当に大丈夫なのかい?」

「だって先生、一つも契約が取れないのに一日中仕事してる人より、あたしみたいに短い時間で確実に一件の契約を取っている人間の方が絶対的に効率がいいと思わない?」

「理屈はね。だけど君はもう少し、社会の歯車に巻き込まれた方がいい」

「嫌よ、そんなの。面倒くさいわ」

 いつも通りの返答に男は軽い溜め息をついた。

 この男の名は神田康明という。外見だけではとても三十三歳とは思えない童顔で、いつも少し皺の入った白衣を纏っている。その若さでこのメンタルクリニックを経営する開業医だ。

 あたしは今までに一度も彼の怒った姿を見たことがない。患者の悩みを親身になって聞いている姿は、まるですべてを悟った神のようだ。

 そう…患者にとっては。

 あたしにとってはただの偽善者。きつい一言を浴びせるたびに、なんとも言えない悲しそうな表情を浮かべるその人を、本当の患者でもなんでもないあたしが神だと思える訳がないのだ。