「もし時間があるなら、少し飲んで帰らないか?」

「え…?」

「時間ある?」

 先生が自分からあたしを誘ったことなど今までにあっただろうか? 初めてのシチュエーションに戸惑う。そんなあたしに気付いているのだろう。それでも先生の笑顔は変わらない。あたしは妙に恥ずかしいような気分になって、目を逸らしたまま頷いた。

「じゃあ、行こう」

 歩き出す後姿を見失ってしまわないように、あたしは人ごみの中を掻き分けて歩いた。

 先生はいつも遠い。追いかける後姿がどんどん遠くに行って、きっと見失ってしまったらもう二度と会えなくなるような気がした。

 すぐそこに、手を伸ばせば掴めるような距離にいるのに、どうしてこんなに不安なんだろう? どうしてあたしは…。

 先生、行かないで!

 そう心が叫んでいた。

「ごめん、東谷さん。ちょっと速く歩きすぎてしまったね」

 ふと振り返った先生は、自分とあたしの間の距離が数メートル開いていることに気付いてそう言った。
 
 先生が連れて行ってくれたのは、カウンター以外の席が五つほどしかない小ぢんまりとしたバーだった。

「この店、好きなんだ。何年か前に先輩に教えてもらって、それからたまに一人で来たりするんだよ」

「へぇ…」

 テーブル席が一杯だったので、先生は迷わずカウンターへ向かった。飲み物も手際よく注文する。『いつものやつで』なんて言っているところを見ると、本当にこの店の常連らしい。

「どうしたの?」

「え?」

「なんだかボーッとしてるけど」

「…別に。先生がそう思ってるだけじゃないの?」

「そう? だったらいいんだけど」

 いつも見ている白衣姿の先生と、今目の前にいるスーツ姿の先生。同じ人なのに、着ているものや場所が違うだけでこんなにも別人に見えるんだ。

 心なしかよく笑う。その笑顔は診察室で見せる陰鬱な笑みではなく、三十歳を過ぎてもまだ童顔と言われる先生の、少年の部分を垣間見せていた。