「祐雫、待たせたね。話が長引いてしまってすまなかった。

 優祐はどうしたの」

 光祐さまは、愛らしく駆けて来た祐雫の頭を撫でた。

「お手洗いでございます」

「一人で淋しくなかったかね」

「あちらのおじさまがお相手をしてくださいましたので、大丈夫でございました」

 祐雫は、文彌と今まで話をしていた椅子を振り返った。

「どの方」

 光祐さまは、辺りを見回した。

「あら、いらっしゃらない。ホールに入られたのかしら。

 父上さまと母上さまのお知り合いと申されてございましたので、

お目にかかって頂きとう存じましたのに」

 祐雫は、狐に抓まれた気分になっていた。

「どなただろうね。祐雫、知らない人にお菓子をあげるからって言われて、

気軽に付いて行かないでくださいよ」

 光祐さまは、祐雫を優しく諭した。

「本当にどなたさまでございましょう」

 祐里は、心配顔で辺りを覗ったが、見知った顔は見当たらなかった。

「そのように怖いおじさまではございませんでしたし、祐雫は、お菓子に

釣られる子どもではございません」

 祐雫は、声をたてて笑った。光祐さまと祐里は、一緒に微笑みながら

一抹の不安を感じていた。

 文禰は、立派になった光祐さまとしあわせに包まれている美しい祐里を

哀愁の思いで、柱の陰からそっと窺っていた。

「父上さま、母上さま、祐雫、お待たせしました。

 遅くなって申し訳ありません」

 優祐が慌てて走って戻ってきた。

「そろそろ、開演の時間だ」

 光祐さまは、家族の背中を押して音楽ホールに入った。


 その姿を背にして文彌は、音楽会の鑑賞券を傍らの屑篭に捨てるとロビーを後にした。

 闇夜に包まれながら文彌は

(もし、あの時に祐里を我がものにしていたならば、私の横には祐里がいた筈だ)

と思い、花冷えの寒さに外套の襟を合わせながら

(しかし、祐里を私の妻にしていたならば、

果たしてあのようにしあわせな微笑を湛える女性にできただろうか)

と苦笑して考えていた。