「手を離すなと言っただろうが…」

 波の勢いで壁に叩きつけられたのだろう。デッキの隅で一人の男の腕をしっかりと掴んだままのレイズが痛みをこらえるような表情で言う。もう片方の腕はしっかりとマストに続くロープを握り締めていた。

「あ…ありがとうございます!!」

「気を引き締めろ。まだ死にたくないだろう」

 男はレイズに最敬礼をしたあと、再びマストを支える作業に向かった。

 この人は、すごい。ただそう思った。命を懸けて誰かを守ることができる人なのだ、と。

「そんなところで何をしている! キャビンへ戻れ!!」

 レイズの声が突然フィスに向けられる。フィスはその場から動けないままでいた。肩で息をしながら近づいてくるその人と視線が重なり合う。ふいにその瞳に張り詰めた緊張感が加わった。

 何…?

 何事か予測もつかないフィスは、ただ彼の瞳を見つめていた。

「危ない!!」

 再びデッキに流れ込んできた波が、今度はフィスの足元をすくった。海水に身を投げ出されそうになった瞬間、グイッと身体を引き寄せられる。一瞬の出来事を理解しようとしているフィスの頬に、レイズの濡れた髪が触れる。こんなに近くに彼を感じたのは初めてだった。

「レイズ…」

「冷や冷やさせるな」

 ほんの少しの怒りを含んだ瞳でそう言う。遠くからは彼を呼ぶ船員たちの声が聞こえてくる。

「悪いが、俺は今おまえに構っている暇はない。ウォレン!!」

 その声に近くにいたウォレンが駆け寄る。

「このお姫様をどうにかしてくれ」

 それだけ言うとレイズは自分を呼ぶ船員たちの元へ向かった。その先には何度目かの大波が見えた。

「あぶな…!」

 レイズの背中を追いかけようとしたが、言葉を最後まで発するよりも先に強い力で引き戻される。

「キャビンへ戻れ! あんたにできることは何もない。あんたがここにいるとレイズが動けない!!」

 ウォレンの激しい言葉が聞こえた。力任せにホールの中に放り込まれると、外とは打って変わって静かな静寂に包まれる。

 そうだ。私にできることは何もないんだ…。ただみんなの足を引っ張っていただけ。

 その場に座り込んだフィスは自分の不甲斐なさに、悔しさの混じった涙を流した。