闇夜に笑まひの風花を



たとえ今日 舞姫に選ばれても、踊れなくなってしまえば意味はない。
舞姫になることがゴールではなく、そこがスタートラインだからだ。
舞姫になって、見た人々に元気や幸せを分け与えられるような舞を舞うことが、彼女の夢だからだ。

けれど……。

「もう、逃げるのは……疲れたよ……」

那乃の悪意から逃げて、
裕に言われた己の真実から逃げて。
逃げることは、苦しくて辛いだけだ。

普通に生きているだけでも辛いなら、いっそ現実を逃避しようかとも思ったが、逃げることすら苦しい。

決して、現実から逃げられはしないのだから。

それならば、
何をしても同じように辛いならば、
せめて、最期まで己の誇りに従って生きたい。
誇りさえもかなぐり捨てて生きるのは、あまりにも惨めだ。

「きっと那乃は私を試してる。私が踊らないと、逃げたことになるわ。
それは、どうしようもなく嫌なの」

舞は、他人と争うための競技ではない。

楽や芸術と同じように、言葉にならない何かを伝えるためのものだ。
だから、他人に何かを与えたり、伝えたりできるのだ。

「『心を込めて、舞いなさい』
……おばあちゃまの、口癖だったわ」

きっと、心を込めて舞えば、那乃にも伝わる。

「だから私は、舞わなければならないのよ」

那乃を思って心を満たす感情は、怒りや憎しみといったどろどろしたものではない。
泣きたくなるような、切なさと哀しみだ。

きっと、まだ私は那乃を嫌ってない。
まだ諦めたくない。

那乃が忘れても、あなたと過ごした時間、思い出を、私は絶対に忘れない。

「だから、ハル。踊らせて」

これは宣戦布告だ。
那乃と、裕に対する、挑戦状。

私は、自らの誇りのままに生きてみせるという、意志表示。

じっ、と遥を見つめる。
その瞳は揺らがない。

彼は、膝に置かれた杏の手が小刻みに震えていることに気づいた。
そして、淡紅の瞳に傷ついた色が揺れていることにも。

遥は嘆息した。

「昔から、一度決めたら最後まで貫き通す頑固者だからな」

遥が髪のセットが崩れないよう、杏の前髪に触れる。

「ぇ?」

小さく、記憶がなくなってもそういうところは変わんねぇのな、と聞こえたのは、気のせいだろうか。