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翌朝。

寝不足の頭を抱えながら階下に降り、遥は洗面台で顔を洗う。
鏡にふと視線をやると、そこにはひどい顔の自分が居た。
遥は溜息を吐く。

最近の杏はよく分からない。
急に泣き出すし、それなのに何も話さない。

こんなことは初めてだった。

杏は自分の出生について何も知らないようだから彼も訊かないし、杏が遥の正体を訊いてこないのを良いことに、遥も話さない。
最初から、互いに不可侵の秘密は持っていた。

けれど、それを除けば何でも相談していたし、杏も何かあればすぐに彼のところに来て泣いた。
独りで泣いているときは遥が彼女の傍に行って、抱き締めた。

独りで寂しく泣かせたくなかった。
全ての悲しみから守りたいなんて不可能だと知っていても、彼女にはそんな感情を抱いていた。

幾度も誘拐されて、その度に助けに行った。
男という生き物に嫌悪を抱くようになっても、遥の手だけは拒まなかった。
それだけでも、特別な存在になれたようで嬉しかった。

遥は、もう痛みの消えた掌に視線を落とす。

初めて拒否をされた、痛み。
それはまだじくじくと彼を蝕む。

彼の手を叩き落とした、杏の手。

その隙間から零れていた透明な雫。
……涙。

遥は掌を握って拳を作る。
悔しさに、苦しさに唇を噛んだ。

あんな風に怒鳴るつもりなんて、なかった。
何があったかなんて彼女が話したくなければ簡単に訊くものではないから、せめて思いっきり泣かせてあげられるように、と……いつものように、最初はそう思っていた。

けれど、破落戸に手を掴まれていても嫌がらない杏に、違和感を感じた。
自暴自棄のような台詞に、頭に血が上った。

哀しかった。
悔しかった。
そして、妬ましかった。

彼女がどうしてあんなことを言ったのか、嫌がらなかったのかは知らない。
けれど、あのとき泣きそうになったのは本当だ。
それが怒りでなのか、哀しみでなのかは分からなかったけれど。

でも、一つだけ確かなことは、触られても大丈夫という特権が自分だけでないことに、恐れと醜い嫉妬を抱いたということだ。

彼の口元に自嘲の笑みが上った。