闇夜に笑まひの風花を

月が、天頂で輝く。
時刻は真夜中に近い。
夜風に晒されて、寒くなってきた。

__帰ろう。

涙は未だに乾かない。
目が腫れぼったい。

不意に、脳裏に焼きついた光景が蘇る。
それを頭を振って消して……その繰り返し。

雨でも降ればいっそ多少心が軽くなるかと思ったが、空は月明かりを落とすだけ。
杏を照らす。
その光が、痛い。
空は、薄情者だ。

ただ帰り道を歩いているだけなのに、道行く人に見向きもされなくて、世界から拒絶された気分になる。

ねぇ、誰か気づいて。
私、ここにいるよ。

胸が痛くて苦しくて、世界に存在していない気分になる。
誰の目にも映らなくなった気分になる。

怖い。

人に注目されるのは慣れていたけれど、人に無視されるのが……こんなに怖いなんて__。

フラついた身体が、誰かにぶつかる。
杏はその反動で歩道に転がった。

「ってぇな~」

ドスのきいた声。
不機嫌に寄せられた眉。
 その人の目が、杏に向けられる。

ああ、ちゃんと存在してる。

そのことにほっとする。

「おいおい姉ちゃん~。腕にヒビ入ったんだけど~。すっげーいてぇんだよね~。ちょっと慰謝料__いや、一晩付き合ってくんねぇかな~。それでチャラにしてあげるからさ~」

何人かの男に挟まれて、腕を掴まれた。
いつものように嫌悪感が奔ったけれど、それさえも安心の材料になる。

「いいよ」

私がここにいることを証明してくれる、良い人たちだから。

杏の口元に笑みが浮かぶ。
泣き腫らした顔でも、その美しさは損なわれない。
むしろ、月の光を淡紅色の瞳に映して、彼女を神秘的に映し出す。

「私のこと、めちゃくちゃにしてくれるなら」

帰りたくない。
遥に会いたくない。

めちゃくちゃにして、何が悲しかったのか、うやむやにしちゃえばいい。

卑下た笑い。
気持ち悪い腕。

それでもいい。

心を、壊して。