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「殿下、まだ傷が治っていないのですから冷やしてはなりません、とあれほど申し上げておりますのに」

夜の帳が下りても明かりの灯されない部屋。
さらに、外は雪が降っているというのに、窓が開け放たれている。

窓辺に凭れるような人影を見つけ、芽依は半ば諦めながら苦言を呈した。

「そう言うな、柊崎」

この国の次期国王である第一王子は、薄い夜着しか羽織っていない。
冷たく寒い中そんな格好をしていては、傷に障るだけでなく、風邪を引いてしまう。

厳しい医師の耳にたこができるほど聞かされている小言に、裕は苦笑で答える。

怪我は深くないものの、あちこちに小さな傷が残っている。
寝込むほどではないが、心配症の医師たちは自分の視界に入る範囲にいてほしいらしい。

しかし__。

「病室では聞こえないだろう」

開け放した窓から聞こえる音。
夜闇を渡る琴の音色。
途切れそうな糸を必死に繋ぎとめようとするように奏で続けられる曲。

「哀しい音ですね」

芽依は窓辺に寄って、目を閉じた。
泣いてしまいたくなるような音だった。
まるで、奏でる本人の代わりに泣いているような。

「ああ。いつ聞いても切ない。
…それでも、聞いていたいんだ。俺は、それ以外してやれないから」

やめろと言ってやることもできなかった。
強引に嵌めた鎖を離してやることもできなかった。
引き留めることもできなかった。

彼の心を痛めているそれが何か知っている裕は、抱き締めてやることさえできない。

だから、せめて。
幼いときから誰よりも傍にいた片割れを求めて、愛する女を求めて泣く音色を、聞いていたかった。
彼の慟哭を。
彼女の代わりに。

芽依は音に耳を傾ける裕を眺め、やがて一歩下がって彼を呼んだ。

「殿下、改めてお礼を言わせてください。結香のこと、お力添えくださりありがとうございました」

そして、深く頭を下げる。

裕はそれをちらりと横目で見やり、すぐに興味を失くしたように小さな月を見つめた。

「いや、気にするな。特別なことをしたわけではない」

「しかし、よろしかったのですか?婚約者を降ろしてしまっても」

「構わん。もとより気持ちのない関係だったのだから」

一宮那乃の偽物改め結香(アンジェ命名)は、本日を以って第一王子の婚約者を降ろされた。
正式には、一宮那乃の死が証明され、結香は姉と同じ柊崎の姓を名乗ることになった。

一宮家は王を謀ったとして大臣の権力を剥奪、一族は一夜にして没落貴族と成り果てた。
それより前に結香は一宮の当主に逆らい勘当されたため、罪を逃れ芽依に引き取られた。
本日から姉妹は狭いが一つ屋根の下で暮らすのだ。

王は現在病床にあるので、裁きを下したのは次期国王の裕である。
結香の無罪放免は彼の温情だ。

裕は月を眺めながら溜息を一つ落とした。

「……アンジェが、言ったんだ。幸せになってほしいと。これで、あれもやっと自由になれただろうか」

それがたとえ、愛した女の去り際の一言であっても。

「殿下はお優しい」

なぜなら、自らを孤独にしてしまうのだから。
その孤独を耐えてまで、他者の幸せを気にするのだから。

しかし、彼女の言葉に裕は自嘲した。

「それをアンジェが聞いたら反論するだろう」

彼女には、最後まで優しくできなかったのだから。

けれども芽依は、彼の台詞にすぐに首を横に振った。

「いいえ。舞姫様もきっと分かっていらっしゃったと思います」

愛する彼女さえ、手放してしまう性格を。
孤独に泣くこともできない彼を。


「殿下」

声に振り向くと、入り口には晃良が神妙な面持ちでそこに立っていた。

「ヒェンリー・ダストが目を覚ましました」