静寂を取り戻した夜に、雪がちらちらと音もなく降ってくる。
天井の抜けた頭上からいつになく明るい星々が瞬いていた。

「対価を、貰いましょう」

静まり返った夜に重く届く言葉。

それに反抗するように、息を飲む音が二つ。

「対価って!」

召喚には対価が付き物だ。
十三年前も、それは変わらなかった。

「対価は最も価値あるもの。人間は普通、生命と交換だけれど……」

「なっ!どっちにしろ死ぬってこと かよ! おい杏、お前知ってて__」

リルフィの言葉を遮って、激昂する遥。
怒りの矛先は、自然と杏に向かう。
見下ろされ、ぶつけられた言葉に、杏は彼の手を振り払い、立ち上がった。

「これが私の罪の償い。私たちが遺したものは、私が始末をつけなきゃ。これくらいしかできないけれど、せめてできることはやりたかった……」

いくら痛みがなくなったとはいえ、体力は限界。
それでも、ふらふらの足で立つ杏は彼に背を向け、リルフィに一歩ずつ近寄っていく。

「ふざけんなよ!生きたいって言ったろうがっ!! お前、俺に生きたいって……」

生きたい、と彼女は泣いたのに。
死ぬな、と彼が抱き締めたのに。

それでも、彼女は己の生命を差し出すのか。

怒りを通りすぎ、たまらず涙をこぼす遥の肩を、裕が抱く。

「ごめんね、ハル……」

謝罪の言葉に感情はいらない。

そこで、呆れた吐息が間に入った。

「あなたたち、勝手に話を進めないで。他人の話は最後まで聞きなさい」

顔を上げると、リルフィが腰に手を当てている。

「普通の人間は、と言ったでしょ う?アンジェは人間だけれど、私の血族だから。普通とは違う価値がある……」

《取り込む》という体質。
それは、召喚されるものにとっては殺すよりも価値のあるものだ。

十三年前も、数多の術師の生命より、一人の少女の方が価値があったのは、そのためだ。
そして、ティアやトゥインではなくアンジェが選ばれたのは、ペンダントの加護がなく、無防備だったため。

そして、リルフィにとっては。

「知っているかしら。
アミルダは滅んでいない。ここではない土地で、民たちがあなたの帰りを待っている」

アンジェが生きて国に帰ること。
それが、最も価値あること。

リルフィはあと一歩の距離にいる杏に手を差し出す。

「一緒に帰りましょう、アンジェ。
ただし、帰さぬと言うなら、ここにいる全てを殺さなければならない」

「なっ!そんなの、脅し__っ」

そんなの脅しじゃないかと叫ぼうとする遥の口を、裕が塞ぐ。
尚も反抗する弟に、黙っていろと囁く。

彼女は帰らぬと言ったのではない。
帰さぬ場合、と言ったのだ。

そんな兄弟のやり取りを見て、リルフィは懸命な判断ね、と笑った。

「さあ、どうする?」

まるで挑戦のような目を向けてくるリルフィに、杏は迷わず右手を伸ばした。

「そんなの決まってる。行くわ」

「杏っ! 」

裕の手から逃れた遥が、悲痛な声で叫ぶ。

杏は最後に彼らを振り返って、笑った。

「杏、そこの二人は置いていけ。聞きたいことがある」

「はい。では、お任せします。呪術は使えないようにしてありますから」

「ああ……」

答えたものの、裕は笑顔を返せない。
杏はリルフィの傍から動かず、彼らに手を伸ばし、名を呼ぶ。
誘われるように、二人は彼女に近寄った。
その後ろでは、リルフィが呪文を唱えはじめている。

手が触れる距離で、杏は裕の頬に触れた。

「裕様」

名を呼ぶ声は心地良い。
彼の母の血に汚れたその手に、しかし、彼は頬擦りをした。

淡紅色の瞳がきらりと煌めく。

「大丈夫ですよ」

何の根拠もなく、唐突もないそれに、何が大丈夫なものか、と心がぎゅっと捕まれる。
けれど、続けられた言葉に呼吸が止まった。

「あなたのは、恋じゃない。 あなたは、人間を知らないの。
怖がらないで。 人と関わることを。 本音を伝えることを」

そんなの、お前さえいれば良いと、言えたなら。

「ごめんなさい。 私、あなたと笑い合いたかった。 本当の笑顔を、見たかった。 ごめんなさい。裕様。 ごめんなさい。 傍に、居られなくて、ごめんなさ……。 私__」

ぼろぼろと大粒の涙を零す杏はとうとう言葉を詰まらせ、嗚咽を零す。

「芽依さんと、……結香を、お願いします。 ごめんなさい、私、全部あなたに押し付けて……」

もう良い。
そう伝えても、謝ることを止めない少女を、抱き締める。

ごめんなさい。
その言葉は、愛してたの、と聞こえた。

「忘れてなんて言えない。赦してなんて言わない。 でも、どうか、幸せに。幸せを、知って……。 あなたの全部を愛してくれる人を……。
私は、あなたを幸せにできない。だから。
ごめんなさい、私、あなたから奪ってばっかり……っ」

「お前ばかりが謝る必要はない。 私たちも、お前からたくさんのものを奪った。 だから、そう泣いてくれるな。 私はお前の笑顔が好きなんだ。私の望みは、一つだけだった。
__笑え。遥に向ける笑顔を、俺に」

涙に濡れる頬に触れ、顔を上げさせる。
泣いても尚、美しい微笑みがそこにあった。

「あなたは遥じゃない。でしょう? あなたはあなたよ。遥を羨ましく思わなくていい。 私が遥に向ける気持ちをあなたには向けないように、 遥には向けない気持ちをあなたに抱いてる。 それじゃあ、だめ? 」

「私は、お前を泣かしてばかりだ」

涙の止まらない目尻を指の腹でそっと拭う。

「涙が全部悪いものとは限らないわ」

泣き止まないくせに、そんなことを言う。
笑うこともできなくて、裕は彼女を手離した。

「分かった。杏。もう、分かった。 泣くな。遥に返すから。 時間が、ないんだろう」

裕の胸から顔を上げてみれば、隣に佇むもう一人。
その姿を見止めるなり、ますます涙が止まらなくなる。

「遥……。ハルカ、さま。__はるぅ」

たくさん呼んだ名前。
何度も、繰り返し。
いとおしい人。

止まらない涙を隠そうとする手は許されなかった。

血で塗れた手。

そんな手では彼に触れられなくて、思わず引っ込むようとするその手を、しかし遥は離さない。

離して、と言っても聞いてくれそうにないので、空いた片手でアレキサンドライトのペンダントを首から外し、彼に渡す。

「どうか守護を……」

リルフィのペンダントは血族しか護らない。
だからこそ、願う。

それを最後に無情にもリルフィの術が発動し、杏は光に飲み込まれていく。

「はる……、好き、よ。好き」

涙混じりの声が聞こえる。

「あんず__ 」

彼女を掴もうと伸ばした手は、何も掴めなかった。

「じゃあ、ね……?
ばいばい…… 」

「まっ。あん_」

名前を呼ぶことさえままならず、彼女の姿は光の中に消えた。

やがて戻った暗闇で、ただひたすら、彼女の消えた眼前を見つめる。
脳裏に蘇るのは、彼女の涙と別れの言葉。

冷たい風が容赦なく身体を冷やした。

ああ。
雪が、降り積もる……。