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「那乃」

嗄れた低い声。
それは厳しさを含んでいて、いつも心臓が縮こまる思いだ。

「また、城にあのときの女が帰ってきたと聞いた。しかも、王子二人がお前を差し置いてその女を気に入っているとか聞くぞ。何をやってるんだ、お前はっ!」

空気を震わせる怒号に、那乃と呼ばれた鉄色の髪の少女は慌てて頭を下げる。

「も、申し訳ありませんっ、父様!!」

かわいそうに声は涙に濡れ、小刻みに震える指で固く拳を作る。
そんな娘の様子さえその目には映っていないように、彼女の向かいに踏ん反り返る男は更に声を荒げた。

「同じ過ちを繰り返す気かっ!また、またあの女にみすみす掻っ攫われる気か!? 何度も、早く身籠れと言っているだろう!!」

バアン、と木製の執務机が派手に鳴り、彼女は怯えて身を竦める。
その上の積み上げられた書類や小棚や文房具やらがその衝撃に雪崩を起こし、床に転がる。
男は苛立たし気に舌打ちをし、僅かに勢いを潜め、眼光鋭く娘を睨みつけた。

「まだ弟王子の方にちょっかいを出しているのか?もう良い。弟王子など捨て置け。
お前は妃になるのだ。この国の、次期王の母となるのだ。もう二度と、邪魔はさせん!早く、早く……!」

早く、と譫言のように繰り返すその濁った緑色の瞳は、焦点を結んでなどいない。

「王子相手とは言え、遠慮はいらぬ。酒でも薬でも使えば良い。ただし、姫ではダメだ。必ず男児を産め。
分かっておるな、事は急を要するのだ!」

好きなだけ喚き散らし、最後に毎回繰り返される呪詛のような念押しをして、男は汚らわしいものでも見るかのように少女を睨みつけ、早々に退出を命じた。
ここで丁寧な退室の挨拶でも始めれば、今度は物か手が飛んでくることが分かっているから、鉄色の髪の少女は深く頭を下げて扉を閉めた。

今日もまた義父の怒号を予想していた彼女は予め人払いを済ませていた。
いくらあの部屋の扉が厚くても、使用人に聞かれては些かまずい。
一つ大きな息を吐いて、彼女は人気のない廊下を歩く。
そして、義父の部屋から遠く離れた彼女の部屋に辿り着くと、侍女に温かい飲み物を命じ、ベッドに身を投げる。

また大きな溜息が零れ落ちた。

早く、早く、と幾度となく繰り返されてきた。
早く、王子を落とせ。
早く、男児を身籠れ。
早く、王家との絆を確かに。
早く、王の外祖父の椅子をわしに。
目を瞑れば、まるで呪詛のように繰り返されてきた言葉がありありと蘇る。

男は焦っているのだ。
言葉尻にも、語気にも態度にもそれが手に取るように分かる。
男の愛娘が失敗した過去があるから。

『那乃』

まるで我が身を縛る鎖のように繰り返される名は、本当は彼女のものではない。
けれど、逃れることのできない呪縛。