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力を持った音が、鼓膜を揺すぶった。

杏はハッと我に返り、一心不乱に動かしていた手を止める。
彼女は大きく息を吐き出し、ドアに視線を投げた。

「約束の時間ですよ、杏」

ドアの前に佇んでいる晃良に、杏は不満げに唇を尖らせた。
ちらりと紙片を一瞥し、窓を仰いで日の高さを確認して、もう一度ペンを持った。

「もう少し待ってください。あと少しで解けるので……」

そしてまた計算に没頭する杏の横に彼は座り込んだ。
彼女の手元を覗いても、晃良には難しすぎてわけが分からなかった。
晃良は諦めの溜息を吐く。

「それにしても、なんて格好をしてるんですか」

言及すべきではないかもしれないと思いつつも、好奇心に負けてやはり口にしてしまった。

杏は以前のように机には向かわず、冷たい石床の上に座り込んでいた。
おまけに足を百八十度開き、腰を前屈してお腹を床につけている。
片肘をついて胸から上を起こし、そんな状態でペンを走らせる。
書き物をするには奇妙な格好だ。

いつものように晃良の声は届いてないかと思いきや、杏は手のスピードを落とさぬまま答えた。

「柔軟してたんです、計算しながら。だって城に来てから全然舞ってないから、身体が訛ってて。一度硬くなったら一朝一夕じゃ直らないから。
ああ、これから軸も整えなくちゃ。舞姫の部屋にレッスンのバーってあるかしら」

彼は知りもしない舞姫の機微を語られて、自分で聞いたこととは言え、曖昧に誤魔化した。

「よし!」

気合を入れるような声と共にペンが転がり、杏はそのままペタンと紙の上に重なるように顔まで床にくっつけた。
そのまま足の角度を更に開き、否むしろ足を後ろに持っていき、膝をくっつける。
床の上に一の字に伸びた。
かと思うと、彼女は後ろ足を曲げ、手をついて上体も反らせた。
いわゆるエビ反りである。
しかもその踵が耳のところまで反るのだから、晃良は素直に感嘆した。

そんなことをしても杏は余裕である。
反りつつ天井を見上げ、思考しながらぼうっと見つめる。

魔の属性も力量もだいたい分かった。
方針も定まり、方法も一応道筋は立っている。
雪が溶け、春が訪れるまで約二ヶ月。

杏はそっと瞑目した。

大丈夫、やれる。
今は切り替えなきゃ。

気合を入れ直してパチっと瞼を開けた彼女は起き上がり、ピンと伸びた足に腕を巻きつけ顔をつける。
ここで床に手をつけなかったのは、背骨を休ませるためだ。

床に転がしたままの簪を手に取り、杏は顔を上げる。