男は10年ほど前に家族を連れて、田舎の古い民家を借りて住むようになった。
男は細々とマンガを描きながら、マンガ家御用達の文房具を作っていた。
妻は昔からのアシスタントで、今は庭の畑で野菜を採りに行っている。
男はひなびた台所に立ちながら土鍋で米を炊いている。
早冬の朝日がやせ細った木の床を柔らかく照らす様が好きだった。
「おとーさーん、まるがうまくきりぬけたからおこづかいふやしてー」
おかっぱの幼い娘が、男の腰のあたりで丸く切り抜いた紙型を持って飛び跳ねている。
5年前にもうけたひとり娘は、妻が切ったぱっつんぱっつんの前髪にまんまるい幼顔がとても似合う。
まるで昭和のような生活だった。けれども不自由はなかった。
なければ作る、ないことで知る新しい発見。
田舎には何も「無い」。けれども無いからこそいろいろなことがある。
四季の移ろい、大地の恵。
最近はくるみの木を森の中で見つけ、実のなり方を見て改めて自然の豊饒を感じて胸を震わせた。
その拾ってきたくるみの実は丹念に洗って天日干しされている。

男は飛び跳ねる娘をたしなめながら、沸騰しはじめた鍋の火を弱めようとしたとき、電話が鳴った。
男は慌てて火を弱めて時計を確認しながら、受話器を取った。
電話口の知人の声は重かった。
古くからの同業者の友人が、自宅の仕事机でつっぷしながら亡くなったとのことだった。

鍋底が焦げてチリチリと音を立てている。
受話器を握る男の手はじっとりと脂汗で湿っていた。