「もう戻って来ないかと思った」
赤根くんは嬉しそうに微笑んでそう言った。
途端、正体不明の違和感がポンと私の中に生まれた。
担当講師がレッスンを途中で放棄したのだ。
怒って然りのはずなのに、ホッと安心したような幸せに満ちた笑みを浮かべる彼が不思議でならなかった。
「ごめんなさい」
何はともあれ、まずは謝った。
赤根くんは「いいんです」と満面の笑みで答える。
「あのね、赤根くん。
赤根くんには私なんかじゃ役不足だと思うの。
だから……」
そこで言葉に詰まってしまった。
何て伝えたら良いかわからない、困った。
「僕は平澤先生に教えて欲しい。
ただ単純に、ピアノを楽しみたいだけです。
深く考えないで?」
その時フッと。
赤根くんが見せたどこか陰りのある微笑がとても大人びていて、ゾワゾワと身体の芯部から泡立つような感覚が広がる。



