「やーん、怖いぃ…」

 暗闇でも透けて見える彼女の白い華奢な腕が、しなやかな動きで隣を歩いていた男性の胴体に巻き付く。男性の方はといえば、一瞬驚いたように息をつめた声が漏れたが、その腕の主に気づいて満更でもなさそうに彼女の背を摩っていた。やがて、その手が彼女の服の中へ侵入していき、彼女の甘ったるい否定が耳朶を刺激する。それに気をよくしたのか、男性の行為が徐々にエスカレートしていく。

 「ちょっと!」

 きゃっ、と可愛らしい声の主が男性を突き飛ばした。思わず上げてしまった牽制に口を閉ざしたが時既に遅く、彼女は紅潮した顔でこちらを睥睨する。男性は下唇を噛んだのか、血を垂らしたまま事態をよく飲み込めていない様子で尻餅をついていた。

 「あー…、他のお客様のご迷惑になりますので」

 やっとそれだけ言うと、今にも叫び出しそうな彼女を振り切って一番近い非常口に向かって駆け出した。次いで、癇癪を起こした彼女の甲高い声が響き渡った。うわぁ、と音に出さず頭を抱える。最悪だ。後ろに控えていた吸血鬼の同僚が、血相を変えて飛び出した。暗闇だからってこういういかがわしい行為に走るカップルは少なくはないが、目の前で盛られるといたたまれない。そういうのに限ってクレーマーになりやすいから気をつけろと言われたって、新人の私にとって何をどう気をつければいいのか分からずに、制止してしまった。だからって逃げ出すとは何だ、と上司に鉄拳を喰らう未来の私を想像して、顔色を青くする。そして、最後通牒はクビだ。

「お前は真面目だからなぁ…」

 そう言いながら快活に笑ってみせるのは、フォローに奔走してくれた吸血鬼の彼だ。特殊メイクで元々厳つい顔を更に引き立たさせ、赤いカラーコンタクトで充血した瞳を演出している。黒のマントで体全体を覆い隠す様は、蝙蝠というより鴉のようだ。今はもう明るい場所に出たというのに、周りの人々は怪訝そうに彼を遠巻きに眺めている。姿と性格のギャップに困惑しているのだろう。