憧子の胸の中で憲治の頬に、ただ涙が流れる。声もなく。
「哀しいことだども、忘れねでけれ。自分を亡くさねぇように、な。」
 なぜ涙が流れるのか、憲治自身にも分からなかった。嬉し涙とも違う。ましてや、哀しいからでもない。千佳子と別れた後の涙とも、少し、違う。
 死へと誘うはずの甘い香りが、憧子の、小さいながらも柔らかで暖かい乳房の奥から漂う。憲治は、明らかに生とは逆のベクトルが働いている甘美な温もりの中で、喜怒哀楽を超えた果ての、涙の体温を感じていた。
 真夏の太陽が、稲穂を灼く匂いがする。

第3節に続く