「やっぱり、帰ろうかな」
そう口にしたとき、タイミング悪く2度の短いクラクションが鳴った。
うじうじ考えている間に、待ち人がやってきたらしい。
赤のアウディが道路わきに止まり、薄手の黒いジャケットを着た市村さんが出てきた。
さすが、有名な食品会社・ミツモリフードの専務をしているだけのことはある。
年齢は35歳。
真ん中分けの、あまり特徴のない髪形。
だけど、今日はムースかジェルをつけてきたのか、前髪がテカテカしている。
顔は、雰囲気だけ見れば、垂れ目になった『ブラック・ダイヤモンド』のジェット・リーっぽいけれど。
彼みたいに、高層ビルのベランダを手だけで落ちるように降りていく、なんて芸当ができることはなさそうな、ほっそりした体型だった。
「お待たせしました」
「いえ。今来たところですから」
ありていな挨拶を交わしたところで、私はいそいそと助手席に座った。
別に、ランチが待ち遠しい食いしん坊ではなく、単にこの場から早く去りたかったのだ。
狭い街だから、いつ彼――縁司――に見られるかもしれないから。


