その時屋敷の一番大きな門の方で大声が響いた。数人の男女が叫ぶ声が陽菜たちの部屋まで響いてきた。
「お上が一大事である!はよう、はよう、お床を!」
「まあ、お上!お気を確かに。誰ぞ、誰ぞある?」
「薬箱を持て!」
 ただ事ではない気配を察して陽菜たちも屋敷の玄関の方へ走って行った。そこにはお供の者に両側から抱きかかえられて、よろよろとした足取りで廊下を歩く上皇の姿があった。フーちゃんが上皇に駆け寄ってその体にすがるように近づいて声をかける。
「上皇様!どうなさったんですか?」
 上皇は額から脂汗を流しながら、それでもかすかに微笑して答えた。
「おお、タマモか。いや、急に体の具合が……なに、少し伏しておれば良くなるであろう」
 だが、その言葉とは裏腹に、上皇の顔色は明らかに尋常な様子ではなかった。女官たちの指示で陽菜たちは一旦部屋へ戻り、その後薬師(くすし)、つまり平安時代で言う医者が何人も呼ばれたが上皇の体の変調の原因に関しては見当もつかない様子だった。
 夜になってフーちゃんが上皇の寝室に呼ばれた。陽菜たちも一緒について行った。上皇はやや落ち着いた様子だったが、相変わらず顔には生気がなくぐったりした様子で布団代わりに体に掛けられた数枚重ねの衣の下から手を伸ばし、子供のようにフーちゃんの手を握り締めた。
 ちなみにこの時代に21世紀で言う布団はまだない。寝るときは着古した衣などを何枚も重ねて体の上に掛ける。上皇は酒に酔ったようなフワフワした口調でフーちゃんに語りかけた。
「タマモよ。すまぬの。そなたの寝所へ夜這いに行くのはしばらく後になりそうじゃ」
「まあ!」
 フーちゃんはにっこりと笑いながら答えた。
「そういう事をおっしゃる元気があるうちは、大丈夫ですよ。もう!」
 ほほ笑み続けるフーちゃんの顔を見て陽菜は少し安心した気分になった。だが陽菜はこの時知らなかった。フーちゃんのその微笑には、隠された別の意味があった事に。