スピカ

 良かった。
ただ服を着ているという事に、こんなにも心底安心した事があっただろうか。
どうやら、あたしが心配したような事はなかったらしい。緩んだ目尻が、急に重くなったように感じた。

窓から差し込む夕陽が、楸さんの肌を赤く染める。
痛む頭を働かせるのは少し気に掛かったけれど、脳内に記憶を巡らせる事にした。


……そうだ。あれから、あたし達は学校を出たんだ。
教室で着替えていた時に、クラスの子がじろじろと見ていたのを覚えている。あの時は気にならなかったけど、余程泣き顔が酷かったらしい。

楸さんが連れて帰って来てくれた。ここまで。
連れ出してくれたんだ。あの場所から。


呼吸をする毎に、楸さんの唇が小さく揺れる。いきなり何か呟きそうな気がして、その度に反応してしまう。

寝顔だけなら嫌いじゃないかな。
不埒な口元も、黒い瞳も、あたしへ向けられないから。


あたしは、楸さんに感謝しなくちゃならない。
きっと、たくさん心配してくれた。
何も聞かずに、一緒にいてくれた。


「……ありがと」

明るい茶色の髪が、夕陽に反射して金色を帯びたように見える。
触れると、少し硬い感触が指先を刺した。柔らかく見えても、本当は傷んでいて硬い男の人の髪。まるで、楸さんそのものだ。

頬は冷たくて、見た目以上に細い。こんなにも綺麗なのに。
掌で覆うと、何だか人の顔に触れてるという実感がなくて、不思議な感じがした。

「……ん」

吐息混じりの声が零れ、慌てて手を引っ込める。
息を止めて様子を窺ってみたけれど、どうやら目を覚ました訳ではなさそうだ。今も尚、真っすぐな睫毛が1本1本、ほんのり赤みを帯びた影を落としている。
途切れた呼吸が、また一定のリズムを刻み始め、あたしは再度胸を撫で下ろした。