その時だった。
一つ、黒い影が落ちる。
「風邪、引いてしまいますよ」
真下を向いていた目線を僅かに上げると、黒い傘を差した知らない女が、階段の下、自分の目の前に立っていた。
両者の間にほとんど距離がないとはいえ、降りしきる雨に霞んで、向かい合う人物の顔ははっきり見えなかった。
それでも、聞こえてきた声は間違いなく若い女のものだった。
「この傘、お貸ししましょうか」
女の言葉は確かに青年の耳に届いていたけれど、男は返事をしない。
驚いてしまったのだ。
女が着ているのは恐らく――喪服。
今自分がいるのは仮にも学校で、学校に喪服に身を包んだ人物がいるというのはどうにも奇妙で。
磨き上げられた琥珀玉のような男の目は、無垢な幼子のようにまっすぐ、女の方へ向いた。
(もしかしたら……)
「いいえ、違いますよ」
心を見透かしているかのように、女は首を横に振る。
「私はこの地区の担当ではありませんし、そもそも貴方にその時が訪れるのは、もう暫く先ですもの。それよりも私が気になるのは――」
抑揚のない話し方。
こんな天気だから余計に侘しく響く。
「貴方の時間が、何度も止まりそうになっている事。それも、無理矢理に」
それらはまるで独り言のような、不可解な言葉であって。
男には正しい意味などわからない。
だが、青年は笑みを浮かべる。
決して楽しそうな表情ではないけれど。
(そうか)
心地よく冷たい雨のお蔭で、頬の腫れは幾らか退いていた。
その頬を、一筋の涙が伝う。
或いはそれは、雨粒だったのかもしれない。
それを拭おうともせず、彼は両膝に顔をうずめた。
たった一言
「モウダレモ、ウチタクナイ」
とだけ囁いて。
目を瞑ると、灰色だった世界はすぐに闇に覆われた。
雨滴が大地を打つ音と傘に当たる不規則な音が、じわじわと聴覚を支配していく。