『いってきます』


『いってらっしゃ~い』

娘のひなたが小首をかしげたかわいらしい仕草で手を振って見送ってくれる。


それを後ろから見守るように、優しい笑顔でやはり手を振って見送っているわたしの夫。


主婦が普通にパートに出かける光景にしては、十分に幸せな 図であることは亜維子もよくわかっていた。

それでも二人に手を振り返して、玄関のドアが閉まると、

『ふぅ』

とひとつ、ため息をつきたくなるのはなぜなのだろう。


これから仕事先のレストランに行って、コーヒーの豆を挽いたりランチの仕込みをしたりするのが億劫なのでは決してない。


家に残してきた二人が気がかりなのでもない。

子供好きの夫はきっと、いつもわたしがひなたと遊ぶときとは違う、楽しいやり方で娘を喜ばせようとし、自分の趣味の買い物のついでにオモチャ屋に行って彼女のほしいもののひとつも買ってやり、『パパと過ごすお休みもいいだろ?』なんて言っているに違いない。


ため息の原因はわかっていた。



わたしの理性を狂わせる不思議な目

聞いただけで、膝から崩れ落ちそうになるあの声

身近な人には決して優しい雰囲気ではないのに、お客様に対する惜しみない気遣いと熱意



………………………

レストランで働くようになって初めての日に、洗い場で皿に囲まれてアタフタしていると

何か強い視線のようなものを感じてそちらの方向を見た

そこには、不思議な目を持つ青年が立って厨房の中を見つめていた

『これからお仕事に行かれる常連様が、お料理待ってるんでスムーズにお願いします』

年上の料理長にも、物怖じしない眼差しと真っ直ぐな声で彼は伝えた。


わたしは皿を洗う手を止めて、その明らかに自分より年下であり、学生でもおかしくない彼から目が離せなくなっていた

彼はチラリとこちらを見た気もしたが、あまりにも汚れた皿がたまっていることへの警告のような厳しい目線だということに気がついたわたしは、慌てて手を動かしはじめたのだった


いまではもう、あんなに真っ白な気持ちで彼を見ることはできないだろう。