どうしたのかと尋ねた医師に、祥多はたどたどしく、自分の事も他の人達の事も分からないと答えた。

 自分は今しがた目覚めて、知っている事と言えば、自分が深い眠りに就いていたくらいだと。


 すると医師は大きく目を見開いて、それから少し寂しそうな顔をした。


 告げられたのは、一時的な記憶障害と予測されるとの言葉だった。

 それから十分後、母親と名乗る女性が現れては、記憶喪失の我が子を力強く、震える手で抱き締めた──。


 俯いていた祥多は、ふと顔を上げた。

 いつの間にか、室内には夕日が差し込んでいる。


(……花音)


 祥多は確かめるように、心の中でゆっくり呼んだ。


 花園直樹も葉山美香子も、二人そろって同じ事を言った。

 時枝祥多は、草薙花音という女性を大切に想っていたのだと。

 自分自身の事よりも、彼女の方が大切だったという言葉は、今の祥多にはこの上ない衝撃だった。


 少しも思い出せない事が歯痒くてしょうがない。自分がどういう生き方をした、どういう人間なのか分からずに苛立つ。


 ガリガリと頭を掻きながら唸る。どうにもこうにも気が晴れない。


 ごろんと寝転がり、大きな溜め息を吐いた。


 自分の頭の中と同じくらい真っ白な天井と向き合う。


 不意に左側を見ると、可憐なかすみ草が生けられていた。


 ぼーっとそれを見つめていると、頭の奥で誰かの嬉しそうな声が響いた。


 それが誰かも分からない。どんな言葉を発しているかも分からない。


 懐かしい香りだけは、本能的に感じていた。


 祥多はそれからずっと、医師の説明を受けている母が帰って来るまでかすみ草を見つめていた。