To.カノンを奏でる君

 ふと、店内に流れる曲の雰囲気が変わる。

 ゆったりした曲から一変、跳び跳ねるようなテンポが楽しさを与える。


「カノン…」


 即座に反応を示したのは花音だが、言葉にしたのは由希だった。


「長らく聴いていないわね。二人のピアノ」


 由希は寂しそうに言い、冷めかけのセイロンティーを啜った。


 花音はピアノを弾く祥多の姿を思い出していた。微かな笑みを浮かべながら自在に音色を操るその姿は、とても眩しかった。

 いつか、いつかその場所に行きたいと頑張っても足許にも及ばない。悔しいと思う半面、愛しさと想いを募らせた。

 ピアノを奏でるその姿にいつも恋していた。


「松岡さん」

「うん?」

「ピアノ室の鍵を貸して下さい」

「……移動は車椅子、時間は三十分以内。それが守れるのなら」

「約束します」


 花音の事を信用している由希は、別段心配もしなかった。


「ごちそうさまでした」


 立ち上がる花音をじっと見つめ、椅子を中に戻し終えた彼女に尋ねた。


「後悔しない?」

「するかもしれません…。でも、私が祥ちゃんを好きな事は変わらないから……私は祥ちゃんが望む事をします」

「そう。貴女逹の幸せを祈ってるわ」


 花音は微笑み、一礼して喫茶店を後にした。

 由希は最後の一口を飲み干し、従兄の写真を見つめる。


「ねぇ、新ちゃん。幸せだった?」


 返って来ないその答えは、写真の中の少年だけが知っている。