女の脳裏には昨夕の情景が鮮明に浮んでいた。澤田と名乗るその顧客とはそれが二度目の契約デートであった。報酬のほかに男は多くの金品を女に貢いでいた。

 山口県須佐にあるホルンフェルス断層上で迫り来る男の顔を見て女は言い放った。
「やめてっ西条寺さん、わたしはもと角徳産業にいたのよ」
「ええっ?・・・それは本当か?・・・・どうして私の本名まで・・・・」
夕陽を背に受けて潮風に髪をなびかせていた女を凝視しているも西条寺と呼ばれた男に継ぐ言葉はなかった。逆光で輪郭だけは見えても男には女の表情までは分からなかったはずだ。女が彼、西条寺に言いたかったのは、
「残念だったわね、せっかく会社の頂点にまで上り詰めたのに。わたしに夢中になるのは間違ってるわ、たくさん貢いでくれたけどあなたと結婚なんて出来るわけないでしょ!」
ということだけであった。呆然として尚、女に迫る彼を女が押し返したのは不可抗力であろう。
大きな野望を象徴するかのような紅く大きな太陽が日本海の海面を眩しく彩って沈んだ。そして夕闇が支配したホルンフェルス断層上には何事もなかったかのように蝉の声が響き渡っていた。

 平成十三年七月三十一日午後十一時、女は山口県小郡駅(現在の新山口駅)前のビジネスホテルへチェックインし、レジストレーションカードにはその場かぎりの偽名を使った。翌日夕方には女は別件で東京へ戻っていなければならなかった。
 小さなシングルベッドへ体を投げ出した女の胸中には津波が押し寄せていた。
『人を殺してしまった。でも正当防衛になるはずだわ。あんなところで迫られたならつい、と主張すればいいんだ。でも……自首せずにいれば……分かりゃしない。だれも見ていないはず……』
体は疲れきっているが、天井を向いたまま視点は定まらず目は潤み、思案にふけって女の脳は眠ることを拒んでいた。
 女は小さなユニットバスでシャワーを浴びた。ホルンフェルス断層上から見た雄大な夕陽と共にもうひとつ女の頭から離れない情景がある。男が断層の絶壁から落ちていくおそろしい瞬間がスローモーション画像のように何度も何度も女の頭の中を廻っていたのだ。そんな数時間前の恐怖をとにかく拭い去りたい女はボディーソープを全身に延ばして持ち上げた左ももに両手を滑らせていた。