彼が眼鏡を外さない理由




わずかばかりの期待感を胸に抱いて、ドアの前から男の座するデスクチェアへと無意識のうちに足を後退させてできていた距離を詰めていく。


薄暗い室内は、存分にわたしの感情を高揚させていた。

一歩一歩踏み出すことに、一拍ずつ鼓動が速まっていく。そんな心地がする。



「ねえ、」



たまらなくなって、わたしは重く閉ざされた口を開いた。

しぃんとした室内に、わたしの声はたしかに響いてみせた。けれどもそれはすぐさましじまに呑まれ、そうして真っ白な壁に吸収されていった。静かだ。そうだ。

今夜は、とても。



「…月が綺麗ですね」



にこり、無理やりに笑みをつくってぽつりと声を落とせぱ。

水を打ったように静かになる室内。それもわたしが声を発するたびに、である。

正直居心地がわるくてかなわない。


わたしの口元は不器用に歪んだ。

男がいつもするようにと意識してみたものの、それは決して男のような綺麗な歪みではなかった。と、鏡を見るまでもなく悟る。失敗した。

男は若干身をかがめると、怪訝そうに顔をしかめた。秀麗な眉と眉の間に刻まれた皺がひたすら優艶(ゆうえん)だった。



「──なにか言ったか?」

「ええ、今夜は月が綺麗ですねって言ったんです」