しかし、不思議に心は騒がなかった。むしろ、「私」は全てから解放された心地よさを感じた。生活から、しがらみから、そして今、重力の枷(かせ)からも「私」は解き放たれた。
 もう何もない。これでいい。朝、「私」の肉体は目覚めない。腐り逝く心は、この肉体においてゆく。「私」自身の肉体が物理的に腐っていく様を見なくてはならないだろうが、それが「私」の心に踏ん切りをつけさせてくれるだろう。後は、家族の哀しみをどうするか。
 その瞬間、「私」の心は一人の女性を思う。
 「私」の思いつづけるあの女性。彼女は「私」の死を哀しんでくれるのだろうか。哀しまれても心苦しい。だが、もっと恐ろしいのは彼女が全く「私」の死に感じなかった場合、であった。そんな女性のために住む場所までも替えたとあれば、それは単なる愚か者である。

 「私」の暗い好奇心が鎌首をもたげる。彼女のところに行ってやろう。そして、「私」の蔭(シャドウ)で彼女を覆い尽くしてみよう。
 「私」の「肉体を持たない意思」が大気に紛れて徘徊をはじめる。脚を動かす必要もない。ただ見える景色の先、行きたい所を見つめるだけでそこに行ける。音もなく、「私」は部屋を出る。手は触れずとも、ドアの方から開いてくれる。
 邪(よこしま)な惟いだけが、意気揚揚と闇の中を行く。「私」の姿は見えない、ハズだ。古今東西の事例によればそのはずだ。
 私の視界は一気に開け、既に安アパートの敷地から出ようか、という頃である。