「私はこれで帰ります。落ち着いて読めないでしょう?」

「あ…いや…。そんなこと…。」

たどたどしく答えるケンジに向かって、裕美の母親は微笑みながら首を振った。


その笑顔は娘と同じく温かかったが、さみしげであった。


「それに、ケンジさんを思う裕美の思いが詰まったその日記は、ケンジさんがお一人で読んだほうが良いと思いますから。」

そう言うと、裕美の母親は静かに立ち上がった。


そして玄関へと向かうその後姿を、ケンジは引き止めることが出来なかった。



「ケンジさん。」

ところどころ破けた革の靴を、ケンジに背中を向け玄関に座って履きながら、裕美の母親はケンジに呼びかけた。


「はい。」

ただそうとだけ答えるケンジに、靴を履き終わった裕美の母親は向き直りもせず、ぽつりと言った。


「裕美のこと、忘れないでくださいね。」

その後姿は、少し震えているように見えた。



「絶対に忘れません。」

忘れられるもんか。
きっぱりと言うケンジの言葉に、裕美の母親は小さく頷くと、天頂へと昇り始めた夏の太陽の日差しの下、何度も何度も振り返ってケンジに礼をしながら帰っていった。