全ては平野さんの決断した事。
 なら、僕は何も否定しない。
「もう僕がホープを弾く事は、ないと思います。あれは平野さんの曲ですから」

 窓からオレンジ色の光が差し始める。
 立ち上がり、軽くお辞儀をした。
「ありがとうございました。そろそろ帰ります」
「では、紅茶くらいは飲んで行って下さい。とても美味しいので」
 そういえば話に夢中で、出された紅茶やビスケットを口にしていなかった。
「すみません。せっかく、出して下さったのに……」
「良いんですよ。うちの生徒さんは、紅茶やお菓子を出しても口にしない人の方が多いですから」
 飲んでみると香りが鼻を刺す様な、若者には飲みにくい様な紅茶だった。
「美味しいですか?」
 苦みに耐えながらも、少しだけ苦笑して見せる。
「ええ、とっても美味しいです」
 僕の反応を見て、老婆はにっこりと笑った。


「忘れないで下さいね。今日、ここに来た事を」
 そう言って、老婆は帰り際に大きな紙袋を僕に渡した。
「何だろう……これ」
 帰り道で、少しだけ中身を覗いてみた。
 中には大量のビスケットが、ぎっしり詰められている。
 一つだけ抓まんで、食べてみた。
「……」
 あの紅茶と同じ様な、若者には食べにくい様な味だ。
「一人で、これを食べるのは厳しいな。捨てるのも勿体ないし……」
 ポケットから携帯を取り出し、真由に電話を掛ける。
 数階のコールが鳴り、真由の声が聞こえた。
『もしもし、想太?』
「なあ、真由。今から僕の家に来れるか?」
『良いけど、どうして?』
「近所の人から、美味しい菓子を貰ったんだ。一緒に食べないか?」
『分かった、お茶会だね! じゃあ、私は紅茶を持ってすぐに行くから、準備よろしく!』
 それだけ言うと、彼女は電話を切ってしまった。
 張り切っていたな。
 なんだか、真由にこのビスケットを食べさせるのが可哀想に思えて来た。