綾人は拳を握って、言葉を絞り出す様に言った。
「このままじゃ、回復の見込みはないから、来月に県外の病院へ移すそうだ」
 それは、つまり彼女の顔を見る事すら出来なくなる、という事だった。
「どうにかならないのか?」
 綾人は申し訳なさそうな顔をして黙ってしまう。
「僕が院長と話して来る」
 病室を出ようとすると、強い力で腕を掴まれた。
「やめておけ。その病院へ行けば、沙耶子が目を覚ますかもしれないんだ。俺達は、入院費の事だけを考えておけば良い!」
 その言葉に、抑えようのない怒りが込み上げて来た。
「何を言ってるんだ!? お前はあ!」
 勢いのあまり、僕は思いっ切り彼の頬を殴った。
 しかし、綾人は動じなかった。
「ちょっと、何やってるんですか!?」
 廊下にいる看護師が、驚いた顔をして怒鳴る。
「いえ、何でもないです。ご心配なく」
 綾人は愛想笑いを浮かべながら誤魔化す。
 僕は病室から一目散に駈け出した。


 行く所もなかったから、とりあえず家に帰った。
 家には誰もいない。
 当然だ。
 僕だけしか住んでいないのだから。
 部屋の中は冷え切っていて、とても寒い。
 突然、頬を温かい何かが伝った。
 頬に手を当てて、それが何であるかを確認する。
 これは涙だ。
「おかしいな。ここ最近、涙なんて出なかったのに……」
 久しぶりに流した涙を見て、僕は泣く事が出来るのだと、少しだけ安心した。


 翌日の朝、突然電話が掛かって来た。
 時計を見ると、まだ五時を回ったばかりだ。
 眠気の残る目蓋を擦り、布団から這い出る。
 寒々しい空気が体を包んだ。
 受話器を取り、眠そうな声で応答する。
「はい、もしもし」
「隼人か?」
 電話の相手は綾人だった。
「何だよ? こんな朝早く。何時だと思ってるんだ」