それは二月の中旬の事だった。
 病院の入り口に車を停車し、俺は沙耶子を迎えた。
「退院、おめでとう」
「うん、ありがとう」
 沙耶子は、あの日以来、笑う事はなくなった。
 そんな沙耶子の目は、どこか虚ろだった。
 隼人の住んでいた家に沙耶子を送り、俺は自分の家に帰宅した。
 悲しくてたまらなかった。
 たった数年間で、俺達は大切な物をなくしたから。


 数日後、沙耶子に電話を掛けた。
「ピアノ教室?」
「ああ、行ってみないか? ここから近いし」
 先日、沙耶子は学校を辞めた。
 このままではいけないと思った俺は、沙耶子の祖母が経営するピアノ教室へ、彼女を連れて行く事を考えたのだ。
 勿論、沙耶子はそこに自分の祖母がいる事なんて知る由もないが。

 その家の表札は、『ピアノ教室』という看板で隠されていた。
 俺達がここに来る事は予測済みだったのだろうか。
『どうぞ。上がって下さい』
 スピーカーから聞こえる声に言われた通り、俺達は家に上がった。
 部屋の中は、前に来た時と何も変わっていなかった。
「そこに座っていてください」
 奥の部屋から、老婆の声が聞こえた。
 言われた通り、俺達は窓際の椅子に座る。
「ちょっと、待っていて下さいね。今、飲み物とお菓子を持って来ますから」
 なんとなく、分かっている。
 あの人の出す物といえば、あれしかない。
「おまたせ」
 トレイには、やはりあの苦い紅茶とクッキーが乗っている。
 俺は軽く溜息を吐き、沙耶子の事を話した。
 老婆は察してくれたのか、自分が沙耶子の祖母であると感付かれる様な言動は見せなかった。
 そんな二人の会話を、俺は黙って聞いていた。
「今、ここで教わっている生徒は、まだ四、五人しかいないんです。あなたの様な経験者がいてくれると、私にとっての音楽の幅も広がって、とても助かるんですよ。どうでしょう? 暫くはお試しという事で」
「良いんですか?」