「そういえば、ここで何か音楽関係の仕事でもするんですか?」
「ええ、そのつもりです。ピアノ教室でも始めようかと」
「そうですか」
 俺は立ち上がる。
「そろそろ、帰ります。今日はありがとうございました」
「いえいえ。ああ、そうだ。よかったら、これを食べて行って下さい」
 クッキーと紅茶を差し出された。
 俺は苦笑しながら、渋々とそれを食べた。

  ♪

 気が付けば、フリーター生活にもだいぶ慣れていた。
 バイトの幅を増やす為に、車の免許まで取った。
 仕事以外で、あまり乗る事はないのだが。
 そういえば、隼人は大学に進学し、現在は大学一年生だ。
 俺も、高校に生き続けていれば、大学へ進学できたのかもしれない。
 いつもの様にバイトを終え、沙耶子のいる病室へ行った。
 やはり見る光景はいつもと同じ。
 ベットの上で穏やかそうに眠る沙耶子の姿。
 それだけだ。
「……沙耶子……」
 そう呟いた時だ。
 彼女の目が、ゆっくりと開いた。
 俺は驚きの余り、看護婦の呼び出しブザーを押す事も忘れていた。
「沙耶子……良かった。本当に良かった!」
 喜んでいる俺を余所に、沙耶子は虚ろな目で俺に問う。
「あなた……誰?」

 何もかもが、うまくいくとは限らない。
 沙耶子は、今までの記憶を失っていた。
 隼人は、そんな沙耶子を見て悲観していた。
 俺が、しっかりしなくては。
 そう思った。
 俺が折れたら、沙耶子は誰にも救われない。

 
 数年間、使われる事のなかった沙耶子の体は、リハビリなしに動ける様な状態ではなかった。
 彼女のリハビリを終えた後、沙耶子は隼人の家で、彼の妹として暮らす事になった。
 俺も、隼人も、それを望んでいたから。