「ちょっと、綾人!」
 怒鳴る母を、父は制止する。
 俺は震える声で叔父に言った。
「俺には……雫が必要だ。だから、あんたに雫は渡さない!」
 彼は俺の前に屈み、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
 それを俺に手渡す。
 紙切れには、どこかの遠い街の住所が書かれていた。
「そんなに雫に会いたいのなら、もう少し大人になって、誰にも頼らず自分の力で会いに来るんだ」
「……」
 俺は雫の前を退いた。
「忘れないから……雫……」
「うん。お兄ちゃんが来るの……待ってるから……」
 彼女の表情は、どこか儚げで辛そうに見えた。
 だから直視する事が出来ず、俺は目を反らした。

 後部座席の窓から、雫が顔を覗かせる。
 走り出す車に、俺は必死に叫んだ。
「絶対に会いに行くから! 手紙も書く! 絶対だ!」
 車が遠くの方に消えて見えなくなるまで、俺は同じ言葉を叫び続けた。


 雫が引き取られて以来、両親が家に帰る事はなくなった。
 俺は雫に会いに行く事も許されなかった。
 唯一、許されたのは手紙を送り合う事だけだ。
 家には俺だけ。
 悲観しても仕方がない。
 こんな状況を作り出してしまったのは俺なのだから。
 それでもテレビ等の公の場で、両親が並べる嘘八百な家族談義を聞いていると、どうしようもない怒りが込み上げた。

   ♪

 朝早くからの野球部の練習を終え、俺は誰よりも早く教室に来ていた。
 蓮は一度、家に帰ると言っていたから、教室には俺しかいない。
 宮久保のロッカーを見ると、彼女の鞄はなくなっていた。
 昨日、俺が部活へ行った後に取りに来たのだろう。
「あいつ……来るかな……」
 つい、そんな事を呟いてしまっていた。
 まったく、俺は何を考えているんだ。
 別に宮久保が来るか来ないかで、俺が悩む必要なんてないじゃないか。