逃げるように立ち去って行った萌羽。すらりと背が高いその背中は頼りなげな影を背負っていて、まるで何かに追われているように、後ろを振り返ることなく行ってしまった。
ポーン…
調律の狂った音が脳の中で響き渡り、不快なその音に思わず額を押さえる。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
店員の声が聞こえて、思わず顔を上げた。
萌羽が戻ってきたのじゃないか…そんな気がして、入り口に目を向けると―――
大使館の前で会った白いコートの女性が、一人で入ってくるところだった。
「ええ。一人です」
彼女はきっぱりと言い切って、店員に案内され私のテーブルの隣まで歩いてきた。
カッ……
ラウンジの床には毛足の長い絨毯が敷いてある。だからヒールの音が響くことなんてないのに。
その音はさっきのGの音とは違った。
はっとなってもう一度目を凝らしてみると、その女性客は良く似たコートを着ているだけで、
さっきの彼女とは違った。
白い―――鍵盤。
隣の女性客はコートを脱いで腰掛ける気配があったけれど、私はもうそれ以上彼女のことを見る勇気がなかった。



