身体のどの部分も自由に動かすことはできないけれど、不思議なことに、朱音の瞳からはつうと一筋の雫が零れ落ち、地面に吸い込まれていった。
(フェルデン・・・)
 恐怖の中で、優しい金髪のあの青年の顔が思い出される。
 ぐるりと背中に回した手は、力強く、何者からも自分を守ってくれた。どんなときも微笑み、髪を撫でてくれた。
「あなたが愚かなサンタシの騎士どもに攫われた後、直ぐにお迎えにあがれず申し訳ありませんでした。城の中は厄介な結界が張られており、あなたが結界の外に出てくるのを待つ他なかったのです」
 アザエルがなぜこうまでして自分をレイシアに連れて行こうとするのかは朱音には理解できなかった。
「そうして待ち続け、あなたは予想通り再びあの洞窟の前に現れた」
 突然アザエルは抱えていた朱音を地面にそっと降ろすと、暗闇の中に僅かに手を翳し始める。途端にバリバリと電気の生じるような音が走り始め、翳した部分に風が集まり始める。朱音は身動きのとれない身体のまま、どうすることもできずにその様子をじっと眺めていた。アザエルの手の中が微かに光り出すと、その光はみるみる大きくなり始めた。時空の扉だ。
 遠くで午前零時の鐘が鳴っているのが聞こえる。
 あっという間に金色の光の穴は広がり、安定を取り戻す。アザエルは疲れた様子を微塵も見せず、横たわった朱音の身体をもう一度抱え直す。
 美しく冷たいアザエルの顔は、フェルデンの優しい微笑みとは似ても似つかなかった。
 無言のままアザエルは光の中に足を踏み入れた。
 その瞬間、朱音は元いた世界と完全に糸を断ち切られたかのような絶望感に襲われた。なぜか、もう二度とこの世界に戻ってくることは適わないと確信したのだ。

  さよなら・・・。

 既に自分が泣いているのか、そうでないのかもわからなかった。