「紫利さん……あの、今日ご主人は…」
聞いていいことかどうか分からなかったけれど、理由を聞かずして人妻を遅くまで付き合わせてはいけない。
「大丈夫、今日も研究で遅くなるって」と紫利さんは寂しそうに笑った。「だからあなたたちが来てくれて良かった」と心底嬉しそうに陶器のタンブラーを大事そうに両手で包む。
その向かい側で
「分かるわ~」と心音がすっかり打ち解けて神妙そうにうんうん頷く。
心音!?
分かるって、あなた何が分かるの!?
「好きな人が自分の方を見てくれないって、それ以上に辛いことってないわよね」
いつになく真面目な…と言うより温度の感じ取れない言葉に
心音―――……?
心音に何かを問いかけようとしていると
「へい!お待ち!生二丁っ!」と生ビールのジョッキを二つ運んできた大将の言葉に、はっとなった。
「あ、ありがとうございます」と何とか生ビールを受け取り、三人で改めて乾杯。
決して派手ではないけれど、どちらかと言うと素朴で家庭的な感じの料理だけれど、注文した料理はどれでも絶品。
心音はサバの南蛮漬けを口にして
「Wow!Excellent (絶品!)」して感激している。
「ニューヨーク育ちと聞いたけれど、お箸の使い方きれいね」と向かいで紫利さんが心音に目を向けている。
「Yeah,確かに育ちはNYだけど両親が日本人なの」
心音は明らかに目上の人だと言うのにすでにため口。まぁ向こうにはあまり敬語とかないから。それに紫利さんも気にした様子もないし。
確かに心音の最後のご両親は日本人だった。それまでの経緯を説明する気がないようで、あたしも黙っていた。
豚の角煮、金目鯛の煮つけ、牛肉と舞茸のすき焼き風、それらの料理はどれも美味しくてビールが進む。ほとんど食べ終えて、胃が落ち着いた頃、たこわさを食べながら私は日本酒に変えた。
それを見計らってから、隣の三人組の男性客の一人が声を掛けてきた。
「すっげぇ可愛いよね。三人ともモデルか何か?」ときさくに問われ、あたしと紫利さんは首を横に振った。実の所あたしたちが食事をしている最中から隣の男性客からちらちらと視線が刺さり、そして何事か噂話をしていたのが気になっていた。
その喋り声は耳障りで、視線は鬱陶しい以外の何者でもない。
いかにも流行りの…しかし少し高級そうな服に身を包み、年齢は二十後半と言った所か。啓と同年代のように思えたが、啓のどこか品があり、抜群の抜け感でチャラい感じは欠片も感じられない。つまりかなり下品な感じ。
最後に頼んだたこわさも残り僅か。あたしの日本酒も紫利さんの焼酎もほとんど残っていない状態でお代わりを頼もうかと思ったが、何となく気が進まないのはお互いそう思っていたのか、あたしと紫利さんは思わず顔を見合わせた。
「ね、俺らこれから会員制のクラブに行くんだけど、これから一緒にどう?」と誘われ
「会員制?」と心音が興味深そうに頬杖をついて聞いた。
「そそ、セレブじゃないと会員にはなれないんだ。プール付きでバーみたいに酒が飲めるんだよ。あ、俺ら三人ともIT関係の仕事のCEO」
と彼らは得意げになって言う。彼らはそれぞれ名刺を取り出しあたしたちのテーブルに置いた。そのどれもが聞いたことがない会社だった。恐らくここ数年で立ち上げたばかりなのだろう。
IT……CEO?
心音の前でそれを言う?まぁ彼らは心音がどんなに凄いのか知らないから当然だけれど。
「ふーん」と心音は喉の奥で呟き、あまり興味を見せなかった。
それが面白くなかったのか
「絶対キミたちが入れないクラブだぜ?」とにやにや笑う。本当のセレブと言うのは昔のあたしたちや紫利さんや啓のことを言うことを教えてやりたかった。いかにも金持をアピールしているけれど、アピールをした時点で魅力が半減する。黙っていてこそ、オーラがあると言うのが本物だ。
「遠慮します」
「興味がないわ」
あたしと心音の声が重なって、彼らははっきりと分かる程不機嫌そうに顔を歪めた。
「行きましょうか」と紫利さんが苦笑を浮かべ席を立ち上がろうとする。はっきりと否定の言葉を口にしたわけれではないけれどやんわりと断る話術は流石に大人だ。
あたしもそれに倣った。
けれど心音だけは居座ったまま
「ねぇ、あんたたち鏡見たことある?それ程度であたしたちを誘ってくるなんていい度胸ね」とにっこりと微笑。
この言葉に男たちは、ハッキリと顔色を変え
「んだよ、お高く留まりやがって」と悪態をついた。「俺らが誘えば女たちは喜んでついてくるんだぜ?いいんかよ、一生経験できないクラブに誘ってやったのに、そのチャンスを逃しやがって」
「さっきも言ったでしょう、興味がないって」心音は声を低めて顔から笑顔を拭い去った。「会員制のクラブやバー?そんなの飽きる程行ったわ。どれもつまらなかったけれどね」
しかも、きっと彼らが言うクラブとやらと桁違いのレベルだ。
普段なら心音はこんな小さなこと、適当に流すタイプでさっさと離れて行くけれど虫の居所が悪かったのだろうか、男たちをねめつけて口元を引き締めている。
「嬉しいお誘いだけれど、今回は失礼するわ。また会ったら誘って?」と流石大人だけある、紫利さんがにっこり微笑んで下品でセレブ気取りのナンパ男を軽くあしらう。
「あーあ、せっかくのチャンスだったのにな、残念だなおたくらも」
男たちは自分たちのプライドを傷つけられてよっぽど悔しかったに違いない。立ち去ろうとする紫利さんとあたしを見て、負け惜しみなのか下品に笑っていたけれど、
コンっ
半分ほど残ったビールを一気に飲み干した心音が若干大きな音を立ててテーブルに置き
「ケイトの知人のお店だから黙ってたけど、あんたたちさっきから煩いし下品。周りの客に迷惑掛けてるって分かってるの?」
とカウンターの方を目配せ。カウンターに座った客たちが何事かこちらを見ていたが、慌てて視線を逸らす。料理を作っていた大将も包丁の手を休めていた。
「んだよ、大した店じゃないのによぉ」と男たちは立ち上がる。
彼らのテーブルには食べ残された料理の残骸がいっぱいに広がっていた。
「その言い方はここのお店の方に失礼じゃありませんか」
今度はあたしがむかっ腹を立てて言うと
「料理も大したことないし、いかにも庶民の好む味だよな。ま。俺らと違って庶民はこうゆうのが合うんだろうな」と男の一人が嫌味たっぷりで吐き捨てるように言い、いつの間にか近くに来ていた大将が
「気にいってもらえなきゃ、さっさと帰んな。ここはあんたらの来る店じゃねぇ。お代は要らねえからよ」
と腕を組んで彼らを睨んだ。
それが余計に彼らのプライドを傷つけたのだろう。
彼らは財布から万札を数枚だして、バンっとテーブルに叩き付けた。
「覚えておけよ?あっという間にSNSで拡散してこの店の対応がいかに悪くて、ついでに言うと雰囲気も料理も最低だったってことをな」
覚悟しておけ、とでも言ってるのか?
「やってみれば?その前にあたしがあんたたちをぶっ潰してやるけどね」
心音の付けてはいけない火に油が注がれた。と思った瞬間だった。
それは燃えるように熱い。
心音の言う通り、彼らがSNSで書きこむと同時に彼女は彼女自身の手を使わなくても自動的に彼らにウィルスを送ることができる。それこそ時限爆弾、自爆する。
いくら情報社会とは言え、それを操り、支配する者がいる。それが心音だ。
心音は三枚の名刺を指の間で挟み、
「You've pissed me off. I'll make sure you're not gonna eat in this world forever.(あたしを怒らせたわね。この世界で一生食えないようにしてあげるわ)」と言ってニヤリと微笑む。
男たちは心音の早口の英語を理解できなかったのか
「は?」と眉間に皺を寄せ顔を歪ませた。
「Coco, that's enough, okay? Let's go.(ココ、もういいでしょう?行きましょう)」あたしが心音を促すと
「ごめんなさいね、大将」と紫利さんが苦笑いで大将に頭を下げる。
大将はあたしたちに気を悪くした様子はなく
「こっちこそごめんな、変な席に通しちまって」
「いえ、今度改めて啓とお詫びに伺います」とあたしも頭を下げると
「いいってことよ!気にしないでくれ、来たいときに来ればいい。ああ、あいつにも宜しく頼む」大将は笑って、あたしの肩を軽く叩く。
そのやり取りが気に食わなかったのか、男は乱暴にテーブルを蹴り上げ、その節に残された料理やお皿が座敷に転がり、飲み物が派手に零された。
中には大将が大事にしていたお皿もあるのに、無惨にも割れてしまった。
思わず口に手をやって目を開いていると
「ナイスショッ~ト」と心音はいつの間に手にしていたスマホで彼らの一連のやり取りを動画で撮っていたみたい。
ここで初めて彼らは顔を青くさせ、心音からスマホを奪おうとしたけれど、それよりも早くスマホをあたしに放り投げてきて、あたしはそれを危うくキャッチ。
「無駄よ、すでにあたしのPCに転送済。因みに今の動画すでに拡散しておいたから。遠隔離操作も得意なの、あたし」心音は意地悪そうに笑う。
時限爆弾を撃ちこむより、素早い対処だ。
「何!?」彼らは慌ててスマホを手にして、それぞれのSNSを見ているのだろう、さらに顔を青ざめさせ「な、何だこれ!」と思わずスマホを放り投げた。
その節にちらりと見えた。その画面には彼らを罵倒するコメントがいっぱいに埋め尽くされている。
これには苦笑を漏らすことしかできない。
「彼女、何者……?」とひそっと紫利さんがあたしに聞いてきて、あたしは苦笑いで肩を竦めた。
「IT業界の神……と言いたいところですが、悪魔ですね」
と言う分けで一件落着??
彼らはまるで逃げるようにお店を立ち去り、残ったお客たちが
「おー!やるね、姉ちゃん!」と皆が身を乗り出して拍手。
「Thank you.容易いものよ♪」とお客の幾人かとハイタッチ。
もしかして、紫利さんよりあたしよりこのお店に馴染んでいる??



