Fahrenheit -華氏- Ⅱ


しかし緑川さんはゆるりと顔を上げると、探るような上目で


「柏木補佐、詳しいですね」と一言。


ギクリとした。


あたしが結婚していたこと、子供を産んだことは啓以外この会社では誰も知らない筈。


あたしは―――


自身が妊娠したときのことを思い出した。緑川さんと違って私の場合は生理が二か月来なかったことから調べた結果、妊娠していることが判明したのだ。


マックスと結婚して半年後のことだった。


今度はあたしの方が俯き、スカートをきゅっと握った。テーブルの角に視線を落としながら、過去を振り返る。


あの時のこと―――思い出したくない。でもユーリのことを思い浮かべると、何度も何度も飽きることなく思い出したくなる。二つの感情がマーブル状に混ざって頭の中がぐちゃぐちゃだ。


マックスは―――あたしが妊娠したことを知ったとき、とても喜んだ。


正直、子供好きそうではなかったが実は好きだったようで、その喜びようはあたし以上のものだった。


大きく膨らんでいくお腹にマックスは愛おしそうに撫でて、まだ見ぬ子に声を掛けていたっけ。


だから…?


だからユーリを欲しがったの?


そんな問いかけ無用だ。


もう―――遠い昔の話だもの。


「………柏木補佐?」


声を掛けられ、はっとなって思わず顔を上げ


「すみません、ちょっとぼんやりしてしまいました。そのことは……通っている婦人科の先生に聞いたので」


と何とか言い訳を取り繕う。


「婦人科?」緑川さんはカップを両手で包みながら、ちょっと不思議そうに目をぱちぱちさせ、すぐにその目を大きく開いて、何を聞かれるのだろうと構えたが


「もしかして柏木補佐も妊娠……?」と緑川さんは声を潜めて僅かに身を乗り出す。


想像もしていなかった質問に少し驚いた。


「いいえ、違います」今度ばかりは真実で、あたしはキッパリと言い切った。


「じゃぁ何で…?」


「ピルの処方をお願いしているんです」


「ピル?」緑川さんが首を傾ける。だけどすぐにまた顎を引き「部長の……為ですか…?不真面目って言うか…」


「いいえ違います」これにもキッパリと答えた。啓はそう言う面では至って真面目だ。


『私、子供欲しくないので』と以前、啓に言った言葉をそのまま答えそうになったが、何とか喉の奥でとどめた。


「私の場合はホルモンバランスが安定せず生理不順なので」とこれも本当のことを言うと


そこでようやく緑川さんは納得したのか


「ああ…」と頷いた。


「私の話はこれぐらいに。今回は緑川さんのお話を聞きにきたので。


話を戻してすみません、何故二村さんに相談されなかったのですか」


と返すと、緑川さんは今にも泣きだしそうに目を潤ませ、またも俯いた。


しかし次の瞬間、とても静かな声で一言呟かれた言葉に今度は私が目をまばたく番になった。





「怖いんです」