「お前の母親は―――…お前に優しかったか?」


そっと聞くと、イチは目だけを上げた。


「―――…優しかったよ。とってもね。でも厳しい人でもあった。あたしがモデルにスカウトされたときも、ママはいい顔しなくて、それでもあたしママの反対を押し切ってモデルになった。


モデルなんて夢みたいだし、田舎娘がきれいな服きて、きれいにお化粧してまるで別人みたいな人生を送れるんだよ。


そりゃ苦労も多かったけど、モデルで成功したら…あんな片田舎で細々と料理屋やってるママを楽させてあげられる。


あたしが産まれたときから―――女手一つで育ててくれたママに―――恩返しができる」


イチは思い出を慈しむように目を細めて、淡い笑みを口元に浮かべた。


俺が見る―――はじめての穏やかな微笑み。


「ママが病気で倒れて―――…その後手術や入退院を繰り返す生活が続いたから、あたしも心配で結局モデルの仕事も辞めちゃうことになったけど」


その後何年か後に女優の勉強をさせ、多額の金を動かし芸能界にイチを売り込んだのは―――


言うまでもなく、龍崎会長だ。


イチの事情を知って、不憫だったのと俺の考えを先回りして手を打ったに違いない。


あの人も―――本当はお優しい方なのだ。


「昔話は終了」と言ってイチは包帯が巻かれた俺の手をポンっと軽く叩いた。


鏡で切った傷跡は思った以上に深かったようで、イチが叩いたことで激痛が走る。


「いっ!」


思わずうめき声を上げると、


「自業自得。バカな真似はしないでよね」


と意地悪く笑ってキッチンに向かっていった。


イチの行動を監視するようにじっとその姿を見ていると、イチはコンロに火をかけた。


「ね、おなか空かない?あたしは空いた。冷蔵庫にあるもの勝手に使って料理したんだけど、あんたも食べる?」


とキッチンから顔を覗かせる。


「毒入りじゃないから安心して?あんたが今死んだら、今度はあたしが龍崎会長に殺されるから。そんな命知らずじゃないよ」


とイチが屈託なく笑い、俺もちょっと苦笑いを返した。